文月 (山彦型駆逐艦)
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呉に停泊中の「文月」 | |
艦歴 | |
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建造所 | ネヴスキー工廠(ロシア帝国、サンクトペテルブルク)[1] |
起工 | 1898年[2] |
進水 | |
就役 | 1902年[2] |
その後 | 1905年1月1日捕獲[1] 1905年8月22日浮揚[1] 1905年9月2日「文月」と命名[1] 1905年12月12日駆逐艦編入後、竹敷工作部で修理[1] 1912年8月28日三等駆逐艦[1] 1914年8月23日雑役船編入、掃海船指定、文月丸と改名[1] 1916年5月30日福岡、筥崎八幡宮に寄贈[1] |
除籍 | 1913年4月1日 |
廃船 | 1915年6月28日[1] |
性能諸元(日本艦籍編入後「山彦」) | |
排水量 | 常備:240トン[3] |
全長 | 垂線間長:57.0m[3] |
全幅 | 5.7m[3] |
吃水 | 平均:2.3m[3] |
機関 | 主機:直立式3気筒三連成レシプロ蒸気機械2基、2軸 主缶:宮原式水管缶(石炭専焼)4基(新造時ヤーロー式水管缶) 馬力:3,800shp[3] |
最大速力 | 26ノット[3] |
燃料 | 石炭:60トン[3] |
航続距離 | |
乗員 | 56名[3] |
兵装 | 7.6cm単装砲1基 47mm単装砲3基 45cm魚雷発射管単装2門[3] |
文月(ふみつき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、山彦型駆逐艦の2番艦である。元ロシア駆逐艦ソーコル級(Сокол)のシーリヌイ(Сильный)。同名艦に睦月型駆逐艦の「文月」があるため、こちらは「文月 (初代)」や「文月I」などと表記される。
艦歴
[編集]日露戦争に参加。1905年(明治38年)1月1日、旅順で沈没状態で捕獲され、同年8月22日で引揚げて整備。同年9月2日「文月」と命名。引き続き竹敷にて改造整備。1908年(明治41年)5月2日進水式。翌年就役。1913年(大正2年)4月1日除籍[4]、1914年(大正3年)8月23日雑役船「文月丸」となる。1915年(大正4年)6月28日廃船となり、翌年筥崎宮(福岡市)へ寄贈される。
艦長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 駆逐艦長
- 北村栄虎 大尉:1908年8月15日 - 1910年3月1日
- 松本謙之助 大尉:1910年3月1日 - 1911年5月23日
- 田辺金次郎 大尉:1911年5月23日 - 1912年5月22日
- 本宿直次郎 大尉:1912年5月22日 - 1912年12月1日
- 松平胖 大尉:1912年12月1日 - 1913年4月1日
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、305-306頁。
- ^ a b 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇艦歴表」11頁。
- ^ a b c d e f g h i 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』38頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 74頁。◎大正二年四月一日(達六六) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「鈴谷」「葛城」ヲ、驅逐艦ノ欄内「文月」「皐月」「漣」「卷雲」「敷波」「霞」ヲ、水雷艇ノ欄内「第三十號」「第二十五號」「第五十五號」「第五十六號」「第五十七號」「第三十一號」「第三十二號」「第三十六號」「第三十七號」「第三十八號」「第三十九號」「第四十號」「第四十一號」「第四十三號」「第四十四號」「第四十五號」「第四十六號」「第六十二號」「第六十三號」「第六十四號」「第六十五號」ヲ削ル。
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』海人社、2012年12月。
- 艦船模型スペシャル No.17 日本海軍 駆逐艦の系譜 1