敬神党
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敬神党(けいしんとう)は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。
説明
[編集]肥後藩では、教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。
この敬神党は、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は、多くが神職に就いており、新開大神宮で神職である太田黒伴雄が「宇気比」(うけい)と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵したのである。
そして、この敬神党が1876年に廃刀令が出た後、神風連の乱を引き起こすことになる[1][2]。
脚注
[編集]- ^ “神風連資料館・桜山神社”. 熊本県地域振興部文化企画課 (2010年1月15日). 2012年6月18日閲覧。
- ^ “神風連の乱”. 熊本城. 2012年6月18日閲覧。
参考文献
[編集]- 石原醜男『神風連血涙史』大日社、1935
- 坂田大『小楠と神風連』蘇麓社、1977
- 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982、463頁
- 平野敏也、工藤敬一編『熊本県の歴史』河出書房新社、1997年