コンテンツにスキップ

手研耳命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
手研耳命
続柄 神武天皇第1皇子

死去 己卯[注 1]11月
片丘の大窨
配偶者 比売多多良伊須気余理比売(記)
父親 神武天皇
母親 吾平津媛
テンプレートを表示

手研耳命(たぎしみみ の みこと、『古事記』では多芸志美美命、? - 己卯[注 1]11月)は、記紀等に伝わる古代日本皇族

二人の弟に対する反逆(タギシミミの反逆)を起こしたとされることで知られる。

名称

[編集]

「耳(みみ)」については、「ミミおよびミ」を参照。

系譜

[編集]

日本書紀』によれば、神武天皇(初代天皇)の第1皇子である。母は吾平津媛。同書によれば、異母弟に神八井耳命および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇(第2代天皇))がいる。

  • 妻:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、伊須気余理比売命)
    手研耳命の父である神武天皇の皇后。なお、この婚姻は『古事記』のみの所伝である。

系図

[編集]
吾平津媛
 
 
1神武天皇
 
 
 
媛蹈鞴五十鈴媛命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手研耳命神八井耳命2綏靖天皇
(神渟名川耳尊)
  • 赤背景は女性。

記録

[編集]

日本書紀』によると、手研耳命は神武東征に従っていたという。

また同書によると、神武天皇の崩御後、手研耳命は異母弟の神八井耳命皇太子神渟名川耳尊(のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした(手研耳の反逆)が、これを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、己卯[注 1]11月に、手研耳は片丘奈良県北葛城郡王寺町香芝町上牧町付近か[1])の大窨(おおむろ)に臥せっていたところを襲われ、討たれたという。

古事記』でも同様の説話が記されるが、多芸志美美命が殺害を計画する対象は、日子八井命(神八井耳命の同母兄)を含めた3人となっている。また、3人が多芸志美美命の計画を知ったのは、3人の母親である伊須気余理比売命の歌によると記されている。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b c 神武天皇76年(丙子年)の3年後、綏靖天皇元年(庚辰年)の前年にあたる。

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 「手研耳命」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588