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戸田忠重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田 忠重
時代 戦国時代後期
生誕 不明
死没 永禄10年5月25日1567年7月11日[1][2]
別名 甚平、弾正[3][2]
戒名 瑞応院賀仲常慶[4]
墓所 全久院[1][5]
主君 徳川家康
氏族 戸田氏
父母 父:戸田宜光[4][5]
母:玉晧院珠峰総球[注釈 1][7][2]
兄弟 重貞忠重[5]
戸田吉光の娘[注釈 2][4][2]
松平真乗の室、松平康長宣直、甚五郎[9]
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戸田 忠重(とだ ただしげ)は、戦国時代武士二連木城戸田氏15代目当主。

生涯

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戦国時代に渥美半島で勢力を持った戸田氏の嫡家に生まれる。兄の重貞徳川家康に従って3,000貫を領したが、永禄7年(1564年吉田城攻めで戦没した。父宜光は、重貞の妻が妊娠していたためその子への家督移譲を願ったが、家康は敢えて弟の忠重に所領を安堵して家督を相続させた[3][2]。その後の遠江国侵攻では先駆けを務めるなど活躍し、また家康より「弾正」の官途を名乗ることを許されている[10][2]

永禄10年(1567年)二連木において病死。嫡男の虎千代(康長)は当時まだ6歳だったが、家康より特に目をかけられ、忠重の家督継承と松平氏を称することを許された。康長の直系は武蔵国深谷1万石を皮切りに転封を繰り返し、江戸時代中期以降は信濃国松本藩主を務めた[11][4][9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 出身氏族・俗名は不明[6]
  2. ^ 吉光は忠重の曾祖父政光の弟にあたるため、忠重の妻は忠重の従大叔母(いとこおおおば)にあたる[8]

出典

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  1. ^ a b 飯沼 1925, p. 11.
  2. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』, p. 319.
  3. ^ a b 飯沼 1925, p. 9.
  4. ^ a b c d 飯沼 1925, p. 10.
  5. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』, pp. 318–319.
  6. ^ 飯沼 1925, p. 50.
  7. ^ 飯沼 1925, pp. 5–10.
  8. ^ 『寛政重修諸家譜』, p. 318.
  9. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 319–320.
  10. ^ 飯沼 1925, pp. 9–10.
  11. ^ 河内 1989.

参考文献

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  • 河内八郎 著「戸田氏」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 10巻、吉川弘文館、1989年。ISBN 978-4-642-00510-4 
  • 飯沼源次郎 編『松本六万石史料』 中巻、明盛村、1925年。 
  • 寛政重修諸家譜』 14巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5