戸田忠重
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時代 | 戦国時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 永禄10年5月25日(1567年7月11日)[1][2] |
別名 | 甚平、弾正[3][2] |
戒名 | 瑞応院賀仲常慶[4] |
墓所 | 全久院[1][5] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 戸田氏 |
父母 |
父:戸田宜光[4][5] 母:玉晧院珠峰総球[注釈 1][7][2] |
兄弟 | 重貞、忠重[5] |
妻 | 戸田吉光の娘[注釈 2][4][2] |
子 | 松平真乗の室、松平康長、宣直、甚五郎[9] |
戸田 忠重(とだ ただしげ)は、戦国時代の武士。二連木城主戸田氏15代目当主。
生涯
[編集]戦国時代に渥美半島で勢力を持った戸田氏の嫡家に生まれる。兄の重貞は徳川家康に従って3,000貫を領したが、永禄7年(1564年)吉田城攻めで戦没した。父宜光は、重貞の妻が妊娠していたためその子への家督移譲を願ったが、家康は敢えて弟の忠重に所領を安堵して家督を相続させた[3][2]。その後の遠江国侵攻では先駆けを務めるなど活躍し、また家康より「弾正」の官途を名乗ることを許されている[10][2]。
永禄10年(1567年)二連木において病死。嫡男の虎千代(康長)は当時まだ6歳だったが、家康より特に目をかけられ、忠重の家督継承と松平氏を称することを許された。康長の直系は武蔵国深谷1万石を皮切りに転封を繰り返し、江戸時代中期以降は信濃国松本藩主を務めた[11][4][9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 河内八郎 著「戸田氏」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 10巻、吉川弘文館、1989年。ISBN 978-4-642-00510-4。
- 飯沼源次郎 編『松本六万石史料』 中巻、明盛村、1925年。
- 『寛政重修諸家譜』 14巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5。