戸田忠義
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戸田 忠義 とだ ただよし | |
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生年月日 | 1864年9月1日(元治元年8月1日) |
没年月日 | 1915年4月15日(50歳没) |
死没地 | 神奈川県横須賀市汐入 |
出身校 | 東京音楽学校本科師範部卒業 |
前職 | 宮中賢所勤番 |
現職 | 尋常第一横須賀小学校教員 |
称号 | 子爵 |
配偶者 |
戸田清子(先妻、離縁) 戸田慶子(後妻) |
子女 | 戸田忠粛 |
親族 | 鹿園実博(弟、貴族院男爵議員) |
貴族院議員 | |
選挙区 | 貴族院子爵議員 |
在任期間 | 1897年7月10日 - 1900年9月29日 |
戸田 忠義(とだ ただよし、1864年9月1日(元治元年8月1日[1])- 1915年(大正4年)4月15日[1][2])は、明治期の政治家、尋常小学校教員、華族。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる[1]。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった[1]。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった[1]。
父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する[1]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]。
1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する[2]。1893年(明治26年)7月、東京音楽学校本科師範部を卒業[4]。1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[5]、1900年(明治33年)9月29日に辞職した[2][6]。1910年(明治43年)から尋常第一横須賀小学校(現在の横須賀市立諏訪小学校)の教員となった[4]。
1915年(大正4年)4月、横須賀市汐入の自宅で病のため死去した[7]。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 平成新修旧華族家系大成 下巻 1996, p. 190.
- ^ a b c 貴族院・参議院議員名鑑 1990, p. 48.
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ a b 東京音楽学校一覧 1910, p. 131, 第10部 卒業生及修了生.
- ^ 貴族院要覧(丙) 1947, p. 8, 議員及議員異動.
- ^ 『官報』第5177号、明治33年10月2日。
- ^ 大正過去帳 1973, p. 63.
参考文献
[編集]- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 『貴族院要覧(丙)』(昭和21年12月増訂)貴族院事務局、1947年。NDLJP:1682480。
- 衆議院・参議院編 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編纂 編『平成新修旧華族家系大成』 下巻、霞会館、1996年。
- 『東京音楽学校一覧 従明治四十三年 至明治四十四年』東京音楽学校、1910年7月18日。NDLJP:813020 。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (高徳)戸田家初代 1884年 - 1915年 |
次代 戸田忠粛 |
当主 | ||
先代 戸田忠綱 |
高徳藩戸田家 3代:1882年 - 1915年 |
次代 戸田忠粛 |