戸田川鷲之助 (明和)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 戸田川 鷲之助 | |||
本名 | 芳野 金治 | |||
生年月日 | 不明 | |||
没年月日 | 1773年7月19日(旧暦5月30日) | |||
出身 | 安房国平郡(現:千葉県安房郡) | |||
身長 | 不明 | |||
体重 | 不明 | |||
所属部屋 | 玉垣部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭2枚目 | |||
幕内戦歴 | 15勝6敗1預1無1休(3場所) | |||
優勝 | 優勝相当成績2回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1761年10月場所 | |||
入幕 | 1770年3月場所 | |||
引退 | 1773年3月場所 | |||
備考 | ||||
2019年6月23日現在 |
戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ、? - 1773年(安永2年)7月19日(旧暦5月30日)は、安房国平郡(現:千葉県安房郡鋸南町保田[1])出身の元大相撲力士。本名は芳野 金治(よしの きんじ)。
来歴
[編集]安房国平郡(現:千葉県安房郡)に生まれ、1761年10月場所で三段目(序二段とも言われている)で初土俵を踏む。1765年10月場所二段目で7戦全勝を達成、1770年3月場所で新入幕を果たした。1771年10月場所では7勝1敗の優勝相当成績を挙げた。しかし、1773年3月場所終了後の旧暦5月30日、巡業先の大坂で死去。生年不明だが初土俵から逆算すると30代で亡くなったものと考えられる。
番付運が非常に悪い力士で、二度の優勝相当成績を挙げながら翌場所はいずれも番付がなぜか降下したり、二段目では負け越し知らず(4勝4敗はあった)にもかかわらず入幕まで9場所・4年半も費やすなど、現在では考えられないほどの悲運の力士だった。これは江戸時代にはまだ番付制度が確立されていなかったことや、江戸時代、とりわけ18世紀の相撲に関する記録が散逸してしまっていることなどが原因である。
戸田川が実際に使用していた化粧廻しが現存しており、最古の物だと言われている[2][3]。
出典
[編集]- ^ “千葉県出身の幕内力士”. 千葉県ホームページ. 2020年2月25日閲覧。
- ^ “2015/10/02 江戸東京博物館NEWS91号”. 公益財団法人東京都歴史文化財団東京都江戸東京博物館. 2020年11月19日閲覧。
- ^ 06251447 化粧まわしの歴史(今日の中スポさん・norさんのブログ〈2008年6月25日記事〉)