慕容貴妃
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貴妃慕容氏(きひ ぼようし、熙寧9年(1073年)- 紹興22年9月1日(1152年9月30日))は、北宋の哲宗の妃嬪。慕容延釗の五世の孫娘[1]。
生涯
[編集]慕容渙才と趙氏の娘。初め元祐皇后(哲宗の廃后、後の隆祐太后孟氏)の侍女を務め、後に御侍(皇帝の側女)となった。
崇寧元年(1102年)正月、徽宗により才人に封ぜられた。大観2年(1108年)2月、美人に進んだ。
靖康の変後、南へ避難した。紹興2年(1132年)、隆祐太后が崩ずると、高宗により婕妤に進封された。その後、顕仁太后(高宗の母)に重んじられ、婉儀に進み、賢妃にいたった。紹興22年(1152年)9月、薨去し、貴妃を追贈された。翌年、臨安の資徳院に葬られた。
話本における形象
[編集]伝記資料
[編集]- 『宋会要輯稿』
- 『皇宋十朝綱要』
- 『建炎以来朝野雑記』
脚注
[編集]- ^ 呂建福『土族史』:「慕容氏自延釗為官居京、至四世孫渙才娶皇室女趙氏、生女後進宮為婉儀。靖康之難婉儀慕容氏及其宗族随之南渡。紹興十四年(1144年)、慕容氏以七十之年特進為賢妃。二十二年(1152年)又特贈為貴妃。」