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愛欲 (1966年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
愛欲
監督 佐藤純彌
脚本
出演者
音楽 佐藤勝
撮影 西川庄衛
編集 長沢嘉樹
製作会社 東映東京撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1966年4月1日
上映時間 90分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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愛欲』(あいよく)は、1966年日本映画

監督:佐藤純彌。製作:東映東京撮影所、配給:東映[1]

当時ライバル視されていた東映の二大看板女優[2]佐久間良子三田佳子が初めて本格的に共演した映画である[3][4][5][6]R-18(旧成人映画)指定[1][7]

大企業の宣伝マン(三國連太郎)を挟み、京都旅館女将佐久間良子)と銀座バーマダム三田佳子)が張り合う[5][8]

キャスト

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スタッフ

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製作

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企画

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当初は本作と同じ、三田佳子主演・森川英太朗原作で、1965年4月から読売テレビで半年間放映された『祇園物語』の映画化として企画が挙がったが[9]岡田茂東映京都撮影所(以下、東映京都)所長と今田智憲東映東京撮影所(以下、東映東京)所長で呼応して[10][11]推進していた"不良性感度"全盛期の東映では[9][12]、そのような女々しい企画は通らず[9]、「もっとこってりしたもの」という要求が出された[9]。岡田は当時「"不良性感度"映画を作るからこそ、大衆が映画館に入るのだ。健全娯楽ものはテレビでやればよい」などと標榜し[10][13]、映画関係者から「彼の怖いところは、そういうことを直ちに実行に移すとこだ」などと評され[10]、東映はこの"不良性感度映画"という岡田理論による線上で全ての映画が企画・製作されることに決定していた[13]。製作決定まで二年を要したため、この間に題名も『祇園町』[5]→、『女の夜と昼』[14]→『女の秘め事』[5]→『女の性(さが)』[9]などと変遷した後[5]、岡田が最終的に『愛欲』に変更したといわれる[9]。当時は洋画邦画問わず、煽情的な映画が増え[13][15][16][17]、題名も「欲」「情」「愛」などが特に多く使用された[16]

キャスティング

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本作の大きな目玉が佐久間良子三田佳子の本格的な初共演[3][4]。今日でも役者同士の"犬猿の仲"はマスメディアの話題によく挙がるが、当時も同じで"犬猿の仲"というテーマで記事が載ると、まず女優編の最初に挙がることが多かったのが佐久間と三田で[4][5][14][18]、「岡田茉莉子有馬稲子以来の代表的"犬猿の仲"」とも評され[14]、二人の対抗意識の激しさはつとに有名だった[2][4][5][19]。目も合わせないと噂され[5]田坂具隆監督の『鮫』と『冷飯とおさんとちゃん』では二人の出演が決定していたが[5]、どちらも佐久間が降板して噂に拍車をかけた[5]。それぞれ男性ファンから絶大な人気を得ていたため[5]、1965年末に日本テレビが二人の共演を企画し[4]、『スターうらおもて』で実現させたが、出演交渉に難航した[4]。当日の生放送ではテレビ局には二人とも洋服で現れたが、本番直前に三田が辺りがパッと華やぐような着物に着替え、佐久間の顔色が変わった[4]。東映も二人のライバル関係を煽る宣伝を都度都度行い[2][4][20]、本作に於いても二人の衣装代を同額の200万円づつかけ、佐藤監督も二人のライバル意識がそのまま画面に出せればいい作品が出来ると言っている、などと告知した[2]。佐久間は「三田さんとは私生活でも仲が悪いなんて言われてますが、何と言われても、二人で力を合わせてヒットさせたい。これが女性映画復活のきっかけになるかならないか、私たちの責任ですものね」と決意を見せた[21]。ライバル意識は勿論持っていたが、実際はそこまで仲は悪くないのに、東映宣伝部が本作で盛んに仲の悪さを強調するプロモーションをデッチ上げ、"犬猿の仲"の売り文句が浸透し、これ以降すっかり定着したとする見方もある[22]

脚本

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当初は『祇園物語』の映画化として企画が挙がっていたため[2]、『祇園物語』の原作者・森川英太朗と佐藤純彌とで脚本を書き、『祇園物語』自体は企画としては流れた[2]。その後会社の意向に沿いつつホンが書き直され、さらに佐久間からも三田からも役柄やホンの手直しの要求があり[2][5]、時間をかけてホンは完成したが[9]、『女の秘め事』のタイトルのときに、二人の宣伝用写真が撮影されただけで企画は完全に流れていた[23]。岡田や今田たち東映幹部は製作を反対し[2]ヤクザ路線が本格化するに伴い[23]、しかしライバルの競演を前面に押し出せば、ヤクザの対立に負けない商売になるだろうという皮算用で企画が復活[23]。この間二年が経過したといわれる[14]。営業面の懸念から、脚本を現代的に書き改め[5]、一応の女性映画の体を成したことで、佐久間が大川博東映社長に直談判に打って出て「男性映画ばかりの映画界だからこそ、女性映画をファンは求めているはずです」と口説いてようやく製作が決定した[2]。製作が決まった当時は、佐久間が京都祇園お茶屋を継ぐ昔風の跡取り娘。三田は姉の生き方に反撥して家を飛び出し、踊りに夢中になる行動派の妹と仲の悪い姉妹」という設定だった[5]。二人に気を遣い、見せ場も公平に割り振った[23]。また設定は三姉妹で、末の妹役には佐久間や三田以上に会社の暴力エロ路線に反撥して干されていた[2]佐久間や三田と並ぶ東映東京の看板女優・本間千代子が予定され[5]、さらに急激に人気を上げていた藤純子まで出演を告知され[5]、東映の主力女優4人を一挙に投入する当時の東映では異色の女性映画超大作を予定していた[5]

撮影

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製作決定が伝えられて時期に1965年11月クランクインとも報道されたが[23]、少し延び、1966年1月からの撮影[4][21]。1月12日のセット撮影では三田が佐久間の顔にビンタを加えるシーンが撮影された[4]

編集

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完成の段階で同じ東映東京で『飢餓海峡』のカット事件」があった[24]。佐藤は2時間で上手くまとまった自信があったが、今田東映東京所長から「プログラムピクチャーは90分前後に収めろ」と命令され、佐藤が返事せずに黙っていたら、今田から「切らないなら会社で切る」と脅されたため、「人に切られるなら自分で切ります」と言い返し、ダイジェスト版のような編集になった[24]。佐藤は悔しくて泣いたという[24]

作品の評価

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興行成績

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監督の佐藤は「かなり後年になって関西地区の営業担当から『かなり美味しかった』と言われたことがありますが、全国展開ということでは苦戦したみたいです」などと述べている[25]

批評家評

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河上英一は「珍しや、東映のトップ女優二人をかみあわせた異色作だが、『愛してるワ』というセリフとベッドシーンだけの反復。何ともサクバクたる印象だけが残る。わが日本人には、昔からもっと奥ゆかしい愛欲の表現力があったはずなんだが……」などと評した[26]

『日本映画俳優全集・女優編』には「佐久間良子と三田佳子の対決に絞れば、役柄が儲け役だったこともあるが、女の業を巧演した佐久間が三田に差をつけた」と書かれている[8]

影響

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佐藤監督は東映が「女性(映画)路線」を模索していたと話しているが[9]、佐久間はそういった正統的(文芸的)な「女性映画を作って欲しい」と盛んに訴え[2][27]、「娼婦芸者の役が続きすぎ」などと出演オファーを次々を拒否し会社と揉め[15][27][28]、本作封切直前の1966年3月で契約切れした後は契約更新に応じず[27]、自身が提出した企画は全部蹴られてクサリ切り[2]、以降は出演ペースが落ちた[13][27]。また三田も「愛欲ものはイヤ」とハラを立て[29][30]、1966年末に専属契約が切れ[15]、「他社や舞台からお誘いを受けている。会社の企画方針を知りたい」と[15]、東映の企画の貧困を訴えて再契約に応じず[15]、佐久間同様、自身が提出した企画も東映に蹴られ[31]、1967年3月に東映を退社している[32][33]。東映が、というより岡田茂は正統的な「女性映画路線」を敷こうという気はさらさらなく、前年1965年に「東映好色新路線」としてエロ映画を大手映画会社で初めて路線化する方針を打ち出しており[4][34][35][36]、佐久間や三田、藤純子大川橋蔵ら東映の看板スターにも「好色映画に出てもらう」と表明し[36]、全員に拒否されていた[5][34][35]。これに至り、こうした色に染まないスターは男優・女優を問わず、監督も含め、テレビに移るか退社の道を選ばされた[13][30][37]

同時上映

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沓掛時次郎 遊侠一匹

ビデオ発売

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脚注

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出典

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  1. ^ a b 愛欲 - 日本映画製作者連盟
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 「匿名座談会 岐路に立つ女優たち 女優失業時代というけれど……?! 芸能界極秘情報」『近代映画』1966年4月号、近代映画社、208–209頁。 
  3. ^ a b 俳優全集 1980, pp. 324-325、644.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 「日本映画 ピンクにけぶる東映城の大奥佐久間・三田も好色路路線」『週刊明星』1966年1月14日号、集英社、100頁。 「日本映画 三田佳子の晴着姿に佐久間良子が顔色かえた」『週刊明星』1966年1月29日号、集英社、126頁。 「グラビア 華やかな対決! 映画"愛欲"で競演の佐久間良子+三田佳子」『週刊明星』1966年2月27日号、集英社、126–127頁。 「日本映画 三田佳子の晴着姿に佐久間良子が顔色かえた」『週刊明星』1966年1月29日号、集英社、126頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「特集 三田佳子と佐久間良子の仲は悪いのか 二人の個性生かす道は?」『週刊明星』1965年1月31日号、集英社、50—52頁。 「ポスト/POST 日本映画 "雪どけ"の佐久間良子と三田佳子 『女の秘事』で初共演」『週刊明星』1965年8月8日号、集英社、86頁。 「ポスト/POST 日本映画 『三田佳子が泣いて抗議 延びたライバル共演の舞台ウラ』」『週刊明星』1965年10月19日号、集英社、94頁。 
  6. ^ 「邦画封切情報 『愛欲』」『月刊平凡』1966年5月号、平凡出版、234頁。 
  7. ^ 愛欲 - 日本映画情報システム
  8. ^ a b 俳優全集 1980, pp. 324–325.
  9. ^ a b c d e f g h 佐藤 2018, pp. 79–83.
  10. ^ a b c 「この最大の危機をどう切り抜けるのか? 映画経営者の英断の年がきた。」『映画時報』1966年1月号、映画時報社、19–20頁。 岡田茂(東映京都撮影所長)・今田智憲(東映東京撮影所長)、聞く人・北浦馨「東映路線の今后の課題 『企画は流行性、スターは不良性感度 岡田・今田東西両所長がさぐる要素』」『映画時報』1965年11月号、映画時報社、30頁。 
  11. ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、326-334頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  12. ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、564頁。 東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。 浜田奈美 (2011年5月17日). “『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1 黒沢清四方田犬彦吉見俊哉李鳳宇内藤誠「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 2.任侠やくざ映画の時代」『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者岩波書店、2010年、268-276頁。ISBN 9784000283946 “第3回〝不良性感度〟という二代目社長岡田茂のビジョン 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.1-2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年). https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/64647/ 2023年1月17日閲覧。 “手塚治新社長インタビュー「東映全社員が企画者」コロナ禍で映画業界大打撃も「映画とは何か、映画館に行くことの意味を再考するタイミングです」”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2020年7月11日). https://hochi.news/articles/20200710-OHT1T50313.html 2021年3月29日閲覧。 
  13. ^ a b c d e 土子猛(編)「総説 記録編 東映、新体制確立に終始/製作・配給界 邦画製作界 展望 東映」『映画年鑑 1967年版』1967年1月1日発行、時事通信社、122、211頁。 
  14. ^ a b c d 「ティールーム『セリフの数まで同量 共演をOKした犬猿の良子と佳子』」『週刊サンケイ』1966年1月24日号、産業経済新聞社、108頁。 
  15. ^ a b c d e 「スクリーン 『目下自宅待機中』の女優 ★佐久間良子・三田佳子の場合」『週刊朝日』1966年3月13日号、朝日新聞社、100頁。 
  16. ^ a b “Gウィーク=初のあれこれ”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1966年4月30日) 
  17. ^ 「芸能ファイル "小津調"のフンイキ」『週刊読売』1966年2月11日号、読売新聞社、49頁。 「連載トップ対談(3) ふたりで話そう 『輸出映画で売ろうじゃないか』 石原裕次郎×三船敏郎」『週刊朝日』1966年5月20日号、朝日新聞社、36–39頁。 池内弘(日活撮影所企画部長)・橋本正次(松竹映画製作本部第一企画室長)・森栄晃(東宝文芸部長)、聞く人・北浦馨「映画企画の新路線はこれだ!能力開発と経営感覚の一致こそ最大の必要事だ、」『映画時報』1966年3月号、映画時報社、12-13頁。 
  18. ^ 「ごしっぷ ゴシップ ごしっぷ ゴシップ ごしっぷ 芸能ジャーナル 『また"女優のケンカ"で売るのか 若尾対岡田と佐久間対三田』」『週刊サンケイ』1967年3月20日号、産業経済新聞社、103頁。 「噂のパトロール 『ライバルスタを採点する 佐久間良子・三田佳子』」『近代映画』1964年12月号、近代映画社、218頁。 
  19. ^ 「作られた佐久間と三田のケンカ」『週刊平凡』1965年2月11日号、平凡出版、43頁。 
  20. ^ 加東康一「BIG STAR/3 佐久間良子」『映画情報』1976年7月号、国際情報社、47頁。 
  21. ^ a b 「『情事』にかける決意 女性映画の復活へ張切る佐久間良子」『週刊サンケイ』1965年11月1日号、産業経済新聞社、99頁。 
  22. ^ 「芸能ファイル "犬猿の仲"を売りまくる東宝の胸算用」『週刊読売』1975年11月22日号、読売新聞社、31頁。 
  23. ^ a b c d e 「観客の目 ライバル意識も使いよう-利用される両ヨシコの対立-」『週刊文春』1965年10月4日号、文藝春秋、20頁。 
  24. ^ a b c 佐藤 2018, pp. 76–79.
  25. ^ 佐藤 2018, pp. 131–133.
  26. ^ 河上英一「芸能ジャーナル 直接法であるすぎる」『週刊読売』1966年4月22日号、読売新聞社、49頁。 
  27. ^ a b c d 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、324-325頁。 押川義行「67年の6人の女優彼女たち自身が意識する67年の課題」『キネマ旬報』1967年1月下旬号、キネマ旬報社、70–71頁。 「芸能ジャーナル 表紙の人 女性映画にかける意地 佐久間良子三本目の水上作品」『週刊サンケイ』1966年10月3日号、産業経済新聞社、96頁。 「ポスト 日本映画 窮地に立つ佐久間良子が情熱をかける『湖の琴』」『週刊明星』1966年9月18日号、集英社、84頁。 「ポスト日本映画 佐久間良子が初の他社出演 セ〇クスに体当たりで『わが闘争』」『週刊明星』1968年5月5日号、集英社、118頁。 
  28. ^ “(私の履歴書佐久間良子(7) 辞めたい-男性映画添え物に不満”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 36. (2012年2月7日) 大高宏雄「大高宏雄のファイトシネクラブ Round281 『我、女優たちの銀幕人生に感じ入る」『キネマ旬報』2012年4月上旬号、キネマ旬報社、133頁。 
  29. ^ 「スクリーン ヌード・シーンに怒った三田佳子」『週刊朝日』1967年9月15日号、朝日新聞社、105頁。 
  30. ^ a b 「ルック 芸能 『泣く泣くテレビに出る三田佳子』」『週刊現代』1967年3月1日号、講談社、28頁。 
  31. ^ 「特別取材 『岐路に立って悩む女優 三田佳子と人妻・団玲子 必死の"フリー宣言"から引退説までの真相』」『週刊明星』1967年4月2日号、集英社、36—39頁。 
  32. ^ 俳優全集 1980, p. 644.
  33. ^ “フリー第一作は松竹で三田佳子『人妻椿』に主演”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 12. (1967年5月27日) “三田佳子、東映を離れる フリーとして映画を中心に活躍を希望”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 6. (1967年3月18日) 「タウン 『"首切り"を"フリー"と呼ぶ東映 -"誇り高き女優"三田佳子の前途は多難-』」『週刊新潮』1967年4月1日号、新潮社、17頁。 “女やくざと全裸のベッド・シーン 東宝初出演 フリー宣言どこへやら 三田佳子”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 6. (1969年11月3日) “毎日映画コンクールの星/3 三田佳子 世代愛され続け”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 8頁. (1996年4月30日) 
  34. ^ a b 「タウン 女優を悩ます東映"好色"新路線」『週刊新潮』1965年2月11日号、新潮社、15頁。 
  35. ^ a b 「観客の目 好色路線への両ヨシコの態度」『週刊文春』1965年12月27日号、文藝春秋、20頁。 
  36. ^ a b 岡田茂(東映京都撮影所長)・今田智憲(東映東京撮影所長)、聞く人・北浦馨「東映路線の今后の課題 『企画は流行性、スターは不良性感度 岡田・今田東西両所長がさぐる要素』」『映画時報』1965年11月号、映画時報社、29-33頁。 
  37. ^ “(私の履歴書佐久間良子(14) 出演取りやめ、歯車狂う東映の路線とのズレ広がる”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 40. (2012年2月15日) 東映カレンダー on Twitter: "2012年2月15日の日本経済新聞
  38. ^ 完全保存版 復刻スクリーンエロス名鑑 『この女優〔15人〕たち あの濡れ場…名シーンをもう一度!…』」『週刊宝石』1992年1月2、9日号、光文社、8頁。 

参考文献

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外部リンク

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