忽那重清
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時代 | 鎌倉時代後期-南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:弥次郎、のち次郎左衛門尉[1][2] |
官位 | 式部少輔、伊勢守 |
主君 | 新田義貞→足利尊氏 |
氏族 | 忽那氏 |
父母 | 父:忽那重義 |
兄弟 | 重清、義範 |
子 | 重勝、親重 |
忽那 重清(くつな しげきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
経歴
[編集]伊予国忽那諸島を本拠とした水軍[1]。元弘元年(1331年)後醍醐天皇に呼応し挙兵(元弘の乱)伊予宇都宮氏の討伐に加わり、伊予各地で戦う[3]。のち新田義貞に従い建武政権に反した足利尊氏の討伐に参陣し、洞院実世の麾下として東山道を進み信濃大井城で敵を討ち、更に京都などでも天皇方として戦う[2][3]。その後建武3年/延元元年(1336年)尊氏が九州から京都へ向かった際は足利方に転じ、吉見氏頼麾下として足利直義勢に従う[3]。京都では宮方を掃討し、伊予では細川[注釈 1]・河野氏を助けて戦った[3]。ほか安芸などで戦い活躍を見せるが、晩年は、南朝方の弟義範に圧倒され歴史の表舞台から姿を消した[1][2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 細川氏(京兆家)の分家のひとつである野州家。