忍岡古墳
忍岡古墳 | |
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後円部墳丘(上部に忍陵神社社殿) | |
別名 | 忍ヶ岡古墳 |
所在地 |
大阪府四條畷市岡山2丁目 (忍陵神社境内) |
位置 | 北緯34度44分47.65秒 東経135度38分29.72秒 / 北緯34.7465694度 東経135.6415889度座標: 北緯34度44分47.65秒 東経135度38分29.72秒 / 北緯34.7465694度 東経135.6415889度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長87.9m 高さ6m(後円部) |
埋葬施設 | 竪穴式石室(内部に割竹形木棺か) |
出土品 | 副葬品多数・埴輪 |
築造時期 | 3世紀末-4世紀初頭 |
史跡 | 大阪府指定史跡「忍岡古墳」 |
地図 |
忍岡古墳(しのぶがおかこふん、忍ヶ岡古墳)は、大阪府四條畷市岡山にある古墳。形状は前方後円墳。大阪府指定史跡に指定されている。
概要
[編集]大阪府北東部、忍ヶ岡丘陵の北西端に築造された古墳である。墳頂には忍陵神社(延喜式内社)が鎮座し、これまでに墳丘は改変を受け石室も盗掘に遭っているほか、1935年(昭和10年)に発掘調査が実施されている[1]。
墳形は前方後円形で、前方部を北方向に向ける[2]。墳丘は2段築成[2]。墳丘外表では主に後円部で円筒埴輪が検出されているが、葺石は認められていない[2]。また墳丘周囲にはくびれ部付近で周溝が認められる[2]。埋葬施設は後円部中央における竪穴式石室(竪穴式石槨)で、内部に割竹形木棺を据えたと見られる[2]。盗掘のため副葬品の一部は失われているが、発掘調査では装身具類・武器類・農工具類といった多様な副葬品が出土している[2]。副葬品のうちでは特に、当時としては有力古墳にのみ認められる小札革綴冑が注目される[2]。
築造時期は、古墳時代前期中頃の3世紀末-4世紀初頭頃と推定される[3]。丘陵先端部に築造されかつては眼下に河内湖を望んだ点、中国系製品である小札革綴冑の出土の点から、当地の有力首長が河内湖を介した流通を掌握してヤマト王権と強い結びつきを持ったと想定され、当時の政治的情勢を考察するうえで重要視される古墳である[2]。なお、本古墳の周辺では西約1キロメートルの讃良郡条里遺跡など数箇所で古墳時代前期の集落遺跡が認められており、それらは本古墳の被葬者を支えた集落であったと推測される[2]。また寝屋川市の小路遺跡では前方後方形周溝墓が見つかっており、忍岡古墳の先代または先々代首長墓と推測される[3]。
古墳域は1972年(昭和47年)に大阪府指定史跡に指定されている[4]。
遺跡歴
[編集]- 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の際に徳川秀忠の迎え入れのため忍ヶ岡丘陵の木々を切り払い櫓造営(『河内国讃良郡河岡庄岡山邑御本陣之次第』)[2]。
- 1934年(昭和9年)、室戸台風で忍陵神社の社殿倒壊、再建工事中に石室の発見[1]。
- 1935年(昭和10年)、発掘調査。副葬品の出土(京都大学:梅原末治ら)[1]。
- 1972年(昭和47年)3月31日、大阪府指定史跡に指定[4]。
- 1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災で石室覆屋に被害[1]。
- 2002年度(平成14年度)、石室覆屋の再建に伴う石室調査、墳丘道路拡張に伴う発掘調査(四條畷市教育委員会、2003年に概報刊行)[5]。
- 2005年度(平成17年度)、墳丘発掘調査(四條畷市教育委員会、2006年に概報刊行)[6]。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り(1935年(昭和10年)調査の想定値)[2]。
- 墳丘長:約87.9メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:約45.5メートル
- 高さ:約6メートル
- 前方部 - 2段築成。
- 幅:約20メートル
近年の調査によれば、墳形は前方部がバチ形に開く可能性が指摘される[2]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては、後円部墳頂中央において竪穴式石室(竪穴式石槨)が構築されている。石室は北半分が盗掘により破壊されているが、全体としては長さ約6メートル・幅約1メートル・高さ約1メートルを測る[2]。石材は兵庫県猪名川産の安山岩質板石で、内面には赤色顔料を塗る[2]。側壁を持ち送り上部を狭くし、上に天井石(現存6枚)を架ける[2]。石室床面には粘土を敷き、その上に割竹形木棺を据えたと見られる[2]。また石室の基底部では排水施設が認められている[2]。
石室内に据えたと見られる割竹形木棺は現存しないが、粘土棺床の断面U字状の窪みから、長さ約5.7メートル・幅約0.75メートルの長大なものと推定される[2]。北側がやや高く傾斜することから、北頭位と見られる[2]。発掘調査では、この棺の内外から多数の副葬品が検出されている。
この竪穴式石室は、発掘調査後に復元され、現在は覆屋内で保存されている[2]。
出土品
[編集]1935年(昭和10年)の発掘調査で石室内から出土した副葬品は次の通り[2]。
- 装身具
- 碧玉製石釧 1
- 碧玉製鍬形石 1以上
- 碧玉製紡錘車 6
- 武器類
- 鉄剣 2
- 鉄大刀 1
- 鉄鉾 2
- 鉄鎌 2
- 鉄刀子 1
- 鉄小札 数点
- 木製刀装具
- 農工具類
- 鉄斧 3
- 鉄鉇 1
- 鉄鏃 破片
以上のほか、盗掘を受けた石室北側には銅鏡数枚程度や玉類があったと推測される[2]。
また副葬品のうちでは、鉄小札の出土が注目される。これは中国製の小札革綴冑の破片と見られるが、同様の小札革綴冑は全国で10数例が知られるのみであり、三角縁神獣鏡の大量出土で知られる椿井大塚山古墳(京都府)・黒塚古墳(奈良県)など限られた有力古墳で認められる遺物になる[2]。
文化財
[編集]大阪府指定文化財
[編集]関連施設
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(大阪府教育委員会・四條畷市教育委員会・畷古文化研究保存会設置)
- 地方自治体発行
- 『四條畷市内遺跡発掘調査概要報告書』四條畷市教育委員会、2003年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 『四條畷市内遺跡発掘調査概要報告書』四條畷市教育委員会、2006年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 『四條畷市史 第5巻(考古編)』四條畷市、2016年。
- 事典類
- 「忍岡古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X。
- 高島徹「忍岡古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『忍ケ岡古墳(四条畷市文化財シリーズ)』四條畷市教育委員会、1974年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 忍岡古墳 - 四條畷市ホームページ