徳大寺公保
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 長承元年(1132年) |
死没 | 安元2年9月25日(1176年10月29日) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 鳥羽上皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 徳大寺家 |
父母 |
父:徳大寺実能 母:廊御方(藤原通季の娘) |
兄弟 |
幸子、公能、公親、公保、能慶、公雲、円実、公全、公性、公重、春日局 養兄弟:育子 |
子 | 実保、隆保、実基、実進、松殿基房室、女子 |
徳大寺 公保(とくだいじ きんやす)は、平安時代後期の公卿。左大臣・徳大寺実能の三男。官位は正二位・権大納言。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 保延2年(1136年)1月6日、従五位下[1]。
- 保延5年(1139年)1月24日、侍従。
- 康治3年(1144年)1月5日、従五位上。
- 久安5年(1149年)3月13日、正五位下[2]。同年4月15日、右近衛権少将。
- 久安6年(1150年)1月29日、備中権介を兼ねる。同年3月14日、皇后宮権亮を兼ねる。
- 久安7年(1151年)1月6日、従四位下。
- 仁平元年(1151年)2月21日、権亮を辞す。同年7月27日、左近衛権少将。
- 仁平2年(1152年)1月3日、従四位上(行幸時の院の賞。統子内親王給。)。
- 久寿2年(1155年)1月6日、正四位下[3]。
- 保元元年(1156年)9月17日、右近衛権中将。同年11月28日、皇太后宮権大夫を兼ねる。
- 保元2年(1157年)8月3日、禁色。10月27日、従三位[4]。中将を止めるが、皇太后宮権大夫は元の如し。
- 保元3年(1158年)2月3日、太皇太后宮権大夫。同年11月27日、右兵衛督。同年12月17日、正三位[5]。
- 永暦元年(1160年)2月28日、参議。太皇太后宮権大夫は元の如し。同日、右兵衛督から左兵衛督に転任。
- 応保元年(1161年)1月23日、伊予権守を兼ねる。
- 応保2年(1162年)10月28日、右衛門督。
- 長寛3年(1165年)1月23日、権中納言。太皇太后宮権大夫、右衛門督は元の如し。同年4月1日、検非違使別当に補されるが、8月17日には右衛門督と検非違使別当を辞した[6]。
- 永万2年(1166年)7月5日、勅授を許される。同年10月21日、太皇太后宮大夫。
- 仁安2年(1167年)1月28日、従二位。同年2月11日、権大納言。太皇太后宮大夫は元の如し。
- 嘉応2年(1170年)1月7日、正二位[7]。安元2年(1176年)、権大納言を辞退し8月13日に出家[8]。9月27日、薨去。享年45。