御法川直三郎
御法川 直三郎(みのりかわ なおさぶろう、安政3年7月13日(1856年8月13日) - 昭和5年(1930年)9月11日)[1][2]は、日本の発明家。製糸業に関連する様々な発明を行い、生涯で150の特許を取得した[1][3]。
経歴
[編集]出羽国秋田(現在の秋田県秋田市[4])で秋田藩士の次男として生まれた[1]。明治8年(1875年)に川村永之助を頭取とする六徳組(のちの川尻組)に入り、蚕種の検査監督として顕微鏡検査に人に当たった[4][1]。
明治20年(1887年)に上京して農商務省の蚕病試験場に入所した[1][2][4]。その後、西ヶ原蚕業講習所に入り、蚕種検査法、蚕質試験を担当した[4]。ここで一粒繰による研究に没頭し、研究を製糸業改良に移した[4]。
明治22年(1889年)に東京の本郷に養蚕工舎を設立した[1]。明治28年(1895年)に御法川工場を建設し、各種発明製造に従事した[3]。明治33年(1900年)に日本初の蚕糸専修学校を創立し校長を務めた。
昭和3年(1928年)に功労により、藍綬褒章が授与され、帝国発明協会より特別功労賞を授与されている[4]。
発明
[編集]明治21年(1888年)に熱菌殺機を発明した[1][3]。1889年には座繰機を発明した[3]。明治36年(1903年)に12条、明治37年(1904年)に20条の多条繰糸機を完成させた[1][2]。明治41年(1908年)に御法川二九式燃焼機の特許を取得した[3]。
多条繰糸機は長らく実用化されなかったが、大正11年(1922年)に平和記念東京博覧会に出品し、金牌が授与された[3]。その後、片倉製糸紡績が20条の多条繰糸機を採用し、最高級生糸を生み出し、「ミノリカワ・ノーシルク」として高い評価を得た[1][2]。