コンテンツにスキップ

彭孟緝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
彭 孟緝
生誕 (1908-09-12) 1908年9月12日
清の旗 湖北省武昌府
死没1997年12月19日(1997-12-19)(89歳没)
中華民国の旗 中華民国 台北市
所属組織中華民国の旗 中華民国
部門 国民革命軍
中華民国陸軍
台湾警備総司令部中国語版
最終階級一級上将
指揮重砲兵第10団(1937年 - )
野戦砲兵第7旅団第10団
台湾高雄要塞(1945年12月 - 1947年)
台湾警備総司令部(1947年5月10日 - 1949年1月4日)
台湾省保安司令部(1949年1月5日 - 1949年12月20日)
陸軍総司令部(1957年7月 - 1959年6月)
戦闘日中戦争 二・二八事件
受賞

彭 孟緝(ほう もうしゅう、中国語: 彭 孟緝1908年9月12日 - 1997年12月19日)は、中華民国の軍人。最終階級は陸軍一級上将明熙黄埔軍官学校砲兵科卒業後、高雄要塞司令や台湾防衛司令、台湾警備司令、台湾保安司令、陸軍総司令中国語版中華民国参謀総長など、中華民国国軍の要職を歴任した。また、1969年から1972年まで駐日中華民国大使を務めていた。1972年に日本と中華民国は断交したため、彼が最後の中華民国大使である。

二・二八事件では、高雄要塞司令として無差別攻撃による反乱の武力鎮圧を行ったため、その残虐さから高雄屠夫[1] とあだ名された。

経歴

[編集]
彭孟緝と、彼を囲む陸軍将校(1950年代)。
朝鮮戦争勃発に伴い、防衛のため台湾を訪れた駐韓アメリカ陸軍第8軍団の指揮官と、中華民国の将官。左から孫立人マクスウェル・D・テイラー、彭孟緝、ウィリアム・C・チェイス英語版(1955年)。

前半生

[編集]

彭孟緝は、光緒34年1908年)8月17日に、大清帝国湖北省武昌府で生まれた。漢陽漢陽文徳書院、次いで広州国立広東大学文学院を卒業後、黄埔軍官学校第5期砲兵科に入校。1926年に黄埔軍官学校を卒業すると[2]蔣介石率いる国民革命軍に加わって東征中国語版北伐に参戦した。その後来日し、1931年帝国陸軍野戦砲兵学校を卒業[2]。帰国後は1932年より第1砲兵旅団大隊長を務め[2]、同時に陸軍砲兵学校中国語版の主任教官も担った。

1937年日中戦争が勃発すると、彭は第二次上海事変長沙会戦中国語版に参戦した。1945年に陸軍中将へ昇進し、砲兵指揮官に任じられた[2]

台湾派遣

[編集]

第二次世界大戦後、台湾は中華民国国民政府に接収され、日本の統治は終わりを告げた。1946年、彭孟緝は台湾に派遣され、高雄要塞の司令官に就任した[2][3][4]。その翌年の1947年二・二八事件が発生すると、彭は高雄要塞司令として反乱の鎮圧にあたった(後述)。このときの活躍が最高当局に賞賛され、彼は台湾全省警備総司令中国語版へ昇進した。また、後に台湾省保安副司令、台北衛戍司令、参謀総長などの要職を歴任することになる[5]

1949年大規模な学生運動が勃発すると、台湾省政府主席の陳誠はこれを鎮圧する決定を下し、当時台湾省警備総部副総司令だった彭に「首謀者」を拘束するよう命じている。同年12月16日、彭は李友邦中国語版楊肇嘉中国語版李翼中中国語版游弥堅中国語版朱文伯劉兼善杜聡明陳啓清中国語版李連春中国語版華清吉林日高中国語版陳尚文中国語版陳天順陳清汾顔欽賢鄒清之とともに台湾省政府委員に任じられ、副司令を兼任した[6]

中華民国政府1949年に台湾へ移ると、翌年革命実践研究院中国語版軍官訓練団が設立された。彭孟緝はその主任に任じられ、この後高級班や石牌中国語版班などの訓練機構も設立された。1952年には陽明山革命実践研究院の主任に就任している。

1954年に陸軍副参謀総長へ昇進。同年8月に参謀総長の桂永清中国語版が病没すると、蔣介石によって副参謀総長の彭孟緝が参謀総長に任じられた[7]:781957年には陸軍総司令中国語版と台湾防衛司令部総司令を兼任するようになり、1959年に陸軍一級上将へ昇進、参謀総長に再任された。1963年5月、蔣介石は彭孟緝の任期延長を命じ[7]:1041965年6月には総統府参軍長中国語版に任命した[7]:110

1967年、彭孟緝は駐泰中華民国大使中国語版としてタイへ派遣され、1969年には駐日中華民国大使として日本へ派遣された。日本には1972年まで駐在していたが、この年の日中共同声明で日本と中華民国は断交したため、彭が最後の駐日大使となった。

帰国後の1972年、彭孟緝は総統府戦略顧問中国語版に就任した。晩年は台北で過ごし、1997年に死去した。

二・二八事件

[編集]

二・二八事件が発生したとき、彭孟緝は高雄要塞司令に就いていた。当時の国民政府監察院の報告によれば、台北から始まった動乱は3月3日高雄へ飛び火し、100人ほどの暴徒が3台のトラックを引き連れて市街を暴れまわったという。同日の夜8時には、塩埕区北野に集った3,000~4,000人が警察局を包囲し、外省人に対する掠劫や暴行が行われた[8]。彭孟緝は、市内の700~800人に及ぶ外省籍の公務員は高雄要塞へ避難し、逃げ切れなかった者は台湾省立高雄第一中学校に閉じ込められたと証言している。事態を重く見た台湾省行政長官公署長官陳儀は、3月4日に彭孟緝を台湾南部防衛司令に任じ、鳳山駐在の第21師団輸送大隊、第3大隊を含む南部全軍の指揮権を与えた[9][10]

さらに彭孟緝は、この群衆が3月5日に高雄要塞司令部を攻撃し始め、合わせて後方の病院を包囲し、銃器や物資を要求したがこれは達成されなかったと回想している。さらに、ガソリンを染み込ませた藁紐を用いて山に火を放つとする噂も飛び交ったため、要塞司令部は軍隊を派遣し、山下町一帯(現在の鼓山路中国語版)を封鎖した。高雄市長の黄仲図中国語版、高雄市参議会議長の彭清靠中国語版苓雅区長の林界中国語版および高雄第一中学校自衛隊中国語版代表の涂光明中国語版、范滄榕、曽豊明は山下町封鎖を受け、彭孟緝との面会を希望したがこれは拒否された。3月6日、黄市長は再び面会を要求し、同日午前9時より応接室にて彭は黄市長ら代表者(このとき林界は不参加)と面会した。この際、涂は9項からなる「和平條款」を提出したが、これは拒否され、彼らは拘束された。彭は黄市長の要求に応じて[11]、午後2時より300人余りからなる1個大隊を下山させて高雄市政府に攻撃を加え、同時に第21師団第3大隊を高雄駅と高雄第一中学校へ向かわせ、民間人に対する武力鎮圧を開始した。下山した1個大隊は午後4時ごろ高雄要塞に帰還し、第3大隊は高雄市政府、高雄駅、高雄第一中学校の防衛に当たった。要塞で拘束されていた涂光明、范滄榕、曽豊明には3月7日に死刑判決が下され、3月9日に要塞内で射殺された。なお、林界は一連の反乱の首謀者とされ[12]3月21日に処刑されている。3月12日には第21師団も帰還した[9]

評価

[編集]

1946年から1947年にかけて在任した高雄要塞司令時代には、前述のような二・二八事件での対応があったが、これ以降にも澎湖七・一三事件中国語版台湾省立師範学院四六事件清郷中国語版などで度々彭孟緝は武力鎮圧にあたっている。合計で数千人以上の死傷者を出したことから、彭は高雄屠夫(高雄の殺戮者)とあだ名された[1][13]

彭は蔣介石との関係も深い。一時期彼は、毎朝蔣介石に鶏肉の煮込み鍋を届けていた。また、蔣介石にとって最も困難な時期である中国本土喪失時には、彭はあたかも高雄要塞司令の姿をした鶏のごとく蔣に媚びを売り、結果としてその後の出世を成功させている[14]

江南中国語版による『蔣経国伝』では、呉国楨が彭孟緝を「獐頭鼠目」(醜くずるい顔つき)と評した[15]。しかしながら、彭は蔣経国の後ろ盾を得ており、また陳誠の支援も受けていたため、より早い出世を果たしている。1974年に江南が呉国楨を訪ねた際、呉は「この人は獐頭鼠目だから、私は蔣先生に繰り返し重用すべきでないと言ったのです」と述べていた[16]孫立人事件後、彭は二級上将に昇進し、黄埔第六期出身で弟分にあたる桂永清中国語版の後任として参謀総長に就任した。江南は一連の人事を、蔣経国勢力の台頭であり、情報機関による軍事掌握だと認識していた[17]

著名な作家である李敖は、彭孟緝を「最初に台湾に来て、最も長い間情報機関を掌握していたため、無実の罪(冤案)、偽りの罪(假案)、誤った罪(錯案)など一人で創造できる」と批判している[18]。その例として李敖が指摘するのは、彭が駐泰大使だった時期に行われた間諜を生み出す冤案である。これにより、来台していた華僑の舒家棟が拉致され、舒の岳父母が首つり自殺するなどの事件を引き起こした[19]

論争

[編集]

彭孟緝の息子である彭蔭剛中国語版中国航運中国語版董事長、元香港行政長官である董建華の妹婿)は、中央研究院朱浤源中国語版黄彰健中国語版に対し、彭孟緝の評価を覆すように依頼した。しかし、本来の目的は「外省人の誤解の解消と、中国統一の促進」であり、“彭孟緝は高雄事件を誤りなく処理した”という結論を導くことにあるが、これはまだ議論の余地がある。彭蔭剛はマスメディアに父の人生を称える広告を打ったが、その中で二・二八事件の犠牲者を「暴徒」と表現したことから、涂光明の遺族を中心に強い反発を受け、彭は誹謗中傷に晒されることとなった。

二・二八事件の犠牲者は長い間、彭孟緝が死後忠烈祠中国語版に祀られたのを苦痛に思うだろうと噂されてきたため、忠烈祠から彭を排除すべきという議論も巻き起こっている。ただし、中華民国国防部代弁者である虞思祖少将によれば、彭孟緝の家族は国防部に「国民革命忠烈祠」への入祀を申請しておらず、台北、台中、高雄などの忠烈祠にも、彭孟緝が祀られたとする記録はない[20]

家族

[編集]

子女

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 高雄市做為東亞人權軸心城市之探討,第69頁,陳清泉,城市學學刊 第2卷第1期,2011-03
  2. ^ a b c d e 彭孟緝”. コトバンク. 2019年11月7日閲覧。
  3. ^ 臺灣省二二八事件回憶錄 彭孟緝
  4. ^ 二二八事件資料選輯 一 柯遠芬報告
  5. ^ 百年追求:卷一 自治的夢想,第1卷,第262頁,陳翠蓮,衛城出版,2013-10-08
  6. ^ “《總統府公報》第貳肆伍號”. (1949年12月31日) 
  7. ^ a b c 陳-{布}-雷等編著 (1978-06-01). 《蔣介石先生年表》. 台北: 傳記文學出版社 
  8. ^ 監察院闌臺監察使署楊亮功、何漢文調査報告 七、高雄市 1947.04.16
  9. ^ a b 高雄市二二八相關人物訪問紀錄 上 彭孟緝先生訪問紀錄 1992.4.8 pp 99-131
  10. ^ 台灣省二二八事件回憶錄 彭孟緝
  11. ^ 二二八事件真相考證稿 黃彰健 2007 pp 191-192
  12. ^ 高雄市二二八相關人物訪問記錄 上 彭孟緝簽呈 p84
  13. ^ 解讀二二八(節錄本),李筱峰,台灣大地文教基金會,2009-02-28
  14. ^ 《碧海鉤沉回憶思錄:孫立人將軍功業與冤案真相紀實》,頁313,鄭錦玉,水牛圖書出版事業有限公司,2005-07-15
  15. ^ 《蔣經國傳》 第17章 吳國楨事件 這位吳眼中“獐頭鼠目”的彭副司令,因功而上將銜副參謀總長代參謀總長。 p271
  16. ^ 〈吳國禎八十億往〉,《江南文選》,鄭南榕發行。臺北:自由時代出版。頁134。
  17. ^ 江南,《蔣經國傳》,頁251。
  18. ^ 李敖,《白色恐怖述奇》,臺北:李敖出版社。2002年初版。頁183
  19. ^ 李敖,〈彭孟緝與舒家棟案〉、〈華僑掀出彭孟緝綁票舊案〉,收於氏著《白色恐怖述奇》,臺北:李敖出版社。2002年初版。頁183-211
  20. ^ 中華民國國防部針對「彭孟緝上將應移出忠烈祠」新聞稿

外部リンク

[編集]
軍職
中華民国国防部
先代
黄杰中国語版
陸軍総司令中国語版
第10代

1957年7月 - 1959年6月
次代
羅列中国語版
先代
桂永清中国語版
中華民国参謀総長
第5代

1954年8月18日-1957年6月30日
次代
王叔銘
先代
王叔銘
中華民国参謀総長
第7代

1959年7月1日-1965年6月30日
次代
黎玉璽中国語版
党職
中国国民党
新設 革命実践研究院中国語版軍官訓練団主任
初代

1950年 - 1952年
次代
不明
新設 陽明山革命実践研究院主任
初代

1952年-1954年
次代
楚崧秋中国語版