張建相
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張 建相(チャン・ゴンサン、朝鮮語: 장건상、1880年または1882年12月19日[1]または1883年[2]または1888年[3] - 1974年5月14日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員[3]。
経歴
[編集]慶南東萊(現・釜山広域市)[5]または慶北漆谷[4](現・亀尾市)[6]出身。釜山の私塾で漢文・神学を、牧師の下で英語を勉強した後、1905年に早稲田大学政治学科に入学したが、途中で退学され、渡米しインディアナ州立大学法学部卒。1917年に上海に渡り、同済社を経て上海臨時政府外務次長を務めた。三・一運動に参加した後、1921年にイルクーツクの高麗共産党大会に出席し、政治部委員に選出された。その後はモスクワの第3インターナショナル第3次大会に出席し、レーニンに会ってコミンテルンとイルクーツクの高麗共産党の連絡役を務めた。1922年に極東人民代表大会に韓国代表として参加したが、中国の警察に逮捕された。北京新聞の擁護を受けて釈放された後、上海で義烈団員として活動し、爆弾を朝鮮に送ったことでまた逮捕され、朝鮮に押送されたが、証拠不足により起訴猶予で釈放された。その後はまた上海に戻り、1941年に上海臨時政府議政院議員、1942年に上海臨時政府国務委員兼学務部長を務めた。光復後は呂運亨系で活動し、臨時政府を離れ民主主義民族戦線に参加し、民主主義民族戦線副議長、朝鮮人民党副党首、勤労人民党首席副委員長、統一社会党・民主革新党創党委員を務めた。釜山選出の第2代国会議員を務めた後も革新系で活動したが、スパイ朴正鎬事件に巻き込まれてしばらく拘束された。5・16軍事クーデター以降はまた革新党事件で逮捕され、懲役5年の刑を宣告されたが、高齢のため釈放された、その後はソウル市貞陵の小屋で余生を過ごした[4][3][2][7][5]。
1974年5月14日の夜、ソウル市城北区貞陵3洞の自宅で持病により死去。享年87[5]。1986年に建国勲章大統領章を追贈された[4]。
エピソード
[編集]能弁家だったが、卞(栄泰)長官の召喚を主張して大きな波紋を呼んだ後、沈黙を貫いた[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c “[독립운동가 열전 삶과 넋 91] 공산주의와 민족주의 넘나들며 독립운동 펼친 장건상” (朝鮮語). 매일노동뉴스 (2021年1月11日). 2025年2月17日閲覧。
- ^ a b c “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年2月17日閲覧。
- ^ a b c “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年2月17日閲覧。
- ^ a b c d 이연복, “장건상 (張建相)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院) 2025年2月17日閲覧。
- ^ a b c “張建相(장건상)씨死亡(사망)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1974年5月15日). 2025年2月17日閲覧。
- ^ 박진관 (2019年5月2日). “[대한민국 임시정부 수립 100주년 그 중심에 선 대구·경북인 .9 중국으로 간 대구경북인의 항일독립운동]” (朝鮮語). 영남일보. 2025年2月17日閲覧。
- ^ “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年2月17日閲覧。