張元令
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正13年(1585年) |
死没 | 寛永17年8月13日(1640年9月28日) |
別名 | 通称:伝七、七兵衛、甚之允 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 張氏 |
父母 | 父:張元至、母:秋穂下野守の娘 |
兄弟 | 元貞、元令、市郎左衛門、女(粟屋元金室) |
子 | 男子、就良、之常 |
張 元令(ちょう もとのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。毛利家家臣で長州藩士。父は張元至。
生涯
[編集]天正13年(1585年)、張元至の次男として生まれる。父は明からの帰化人ながら毛利輝元の出頭人(輝元出頭人)として、毛利家の中央行政を担った一人である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより毛利家は周防・長門2か国に減封となったが、翌慶長6年(1601年)8月27日に父・元至が毛利秀就の乳母との密通を理由として、周防国大島郡で切腹させられた(張元至密通事件)。しかし、元至と密通したとされる乳母はその事実を強く否定しており、元至死後の張家も輝元存命中に兄・元貞を当主として再興されていることから、この密通事件は事実でなく、元至を排除するための名目であったとされる。