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弁内侍日記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

弁内侍日記』(べんのないしにっき)は、鎌倉時代女流歌人で、藤原信実の娘にあたる弁内侍によって記された日記である。

概要

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1246年寛元4年)から1252年建長4年)までの宮廷生活についてが、弁内侍の和歌とともに描かれている。ただし、写本を含めた現存本のほとんどは破損が著しく、例えば『井蛙抄』などでは現存本に無い『弁内侍日記』からの引用が記されるなど、内容全ての解明はなされていない[1]。このため、実際の『弁内侍日記』には1259年正元元年)までの日記があったのではないかと推論されている[* 1]。現存本文からは、成立年代について、

と推定されている[2]。 日記が対象としている期間、弁内侍は、妹の少将内侍と共に、後深草天皇の内侍として出仕している。このため、弁内侍自身と同様に少将内侍に関する言及が多い。直接の主君である後深草天皇はまだ幼く、どちらかと言えば先帝後嵯峨院の側近としての性格が読み取れる[3]。 『弁内侍日記』全体の性格としては、『御湯殿上日記』に代表される、女官の公的な日記に近いとする観点[* 2]がある一方、弁内侍と少将内侍の歌を中心とした私的な文芸として捉える意見[* 3]もある。記述の仕方からは、平安時代の日記文学にしばしば見られるようなずっと後年の回想録でもなく、公的日記のような日次の記述でもない、ある程度の期間における内容を後日歌を中心としてまとめたものと考えられる[4]

伝本

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現存する伝本24種は、I・II・IIIa・IIIb・IIIc・IIId・IVの各類に分類される。このうち、I類(内閣文庫蔵本)は祖本の質が悪く、長大な脱文をII類(彰考館蔵本)によって補った形跡があるという[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ あるいは、弁内侍周辺の多様な素材に基づき、『弁内侍日記』と称する複数の作品が存在した可能性も指摘されている(森田(参考文献 一))。
  2. ^ 「弁内侍日記を読んで連想せられるのは、やがて現れる「御湯殿 の上の日記」である。(中略)それは役目で記録した公の日記であるが、弁内侍日記はそれに近い性質を持っている」(玉井幸助 『日記文学の研究』 1965年10月 塙書房)
  3. ^ 「寛元四年の章段では、和歌そのものによって、歌人としての評価を読者に仰ごうという意図が窺えるのに対し、宝治元年以降の記事からは、宮廷における自分の評価を書き留める意図のあること」(阿部(参考文献))

出典

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  1. ^ 森田(参考文献 一)
  2. ^ a b 阿部(参考文献)
  3. ^ 森田(参考文献 二)
  4. ^ 森田(参考文献 三)

参考文献

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関連項目

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