コンテンツにスキップ

建春門院伯耆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

建春門院伯耆(けんしゅんもんいんのほうき、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の女流歌人近江守卜部基仲[* 1]の娘。神祇伯仲資王の妻[1]業資王資宗王の母。内裏伯耆(だいりのほうき)とも呼ばれた。

経歴

[編集]

高倉天皇の生母である建春門院平滋子に出仕、後に土御門天皇の内裏女房[2]。また、斎宮乳母を務めた[1]という。後鳥羽院歌壇で歌合に参加している。

逸話

[編集]
  • 1205年(元久2年)正月19日の朝覲行幸において、後鳥羽院によって琵琶の秘曲が演奏された[* 2]ことが、朝廷内での一大ニュースとなった。これについて、土御門天皇方を代表して伯耆が、後鳥羽院方を代表して下野が、歌の応酬をしている。

  まことや行幸の御遊の御ひわのしらへめつらかなるよし よにののしりあへるを
  うちの女房ははきのつほねそうせよとおほしくて
よしとははいともかしこしつのくにの こやさきのよのしるへなるらん
  かへしせよと仰あれは 下野
なにかいふむかしもいまもためしなく 雲のうへまてひひくしらへを

— 『源家長日記』 元久二年正月
  • 1210年(承元4年)正月頃の早朝、藤原定家内裏八重桜の一枝を切って持ち帰ったのを、蔵人達が見ていた。その話を聞いた土御門天皇が、伯耆に歌で定家に「見たぞ」と言ってやれと命じた。

  女房伯耆 くれなゐの薄様に書きてつかはしける
なき名ぞと後にとがむな八重桜 うつさむ宿はかくれしもせじ
  返し
暮ると明くと君につかふる九重の やへさく花の陰をしぞ思ふ

— 『古今著聞集』 巻第十九 草木第廿九[3]

作品

[編集]
定数歌歌合
名称 時期 作者名表記 備考
石清水若宮歌合 1200年(正治2年) 内裏伯耆 西園寺公経と番い勝1持3無判1
仙洞影供歌合 1202年(建仁2年)5月26日 女房伯耆 藤原隆房と番い負1持2
私家集
  • 家集は伝存しない。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「基仲法師」とも。鹿ケ谷の陰謀に連座して捕縛された。
  2. ^ 「元久2年正月19日 土御門朝覲行幸、東宮順徳御覧、後鳥羽琵琶玄上(『遊』『源家長日記』『御記』)」(今村(参考文献))

出典

[編集]
  1. ^ a b たまきはる』 女房の名寄
  2. ^ 『石清水若宮歌合』 道清法印結構 正治二年
  3. ^ 『古今著聞集』 巻第十九 草木第廿九 662 「冷泉中将定家南庭の八重桜の枝を折り取ること」

参考文献

[編集]
  • 今村みゑ子 「順徳天皇と音楽」 『明月記研究 7号 記録と文学』 2002年12月 明月記研究会

関連項目

[編集]