コンテンツにスキップ

庵原軌道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
庵原軌道
概要
現況 廃止
起終点 起点:江尻駅
終点:庵原金谷駅
駅数 10駅
運営
開業 1913年12月16日 (1913-12-16)
廃止 1916年7月17日 (1916-7-17)
所有者 庵原軌道
路線諸元
路線総延長 5.5 km (3.4 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
庵原軌道
路線総延長5.5 km
軌間762 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STRq BHFq
東海道本線 江尻
exSTR+l exKBHFeq
0.0 江尻
exBHF
0.6 辻学校前
exBHF
1.1 辻町
exBHF
1.6 秋葉前
exBHF
2.0 西久保
exBHF
2.7 神明前
exBHF
3.2 庵原役場前
exBHF
3.8 庵原郵便局前
exBHF
4.3 庵原新田
exKBHFe
5.5 庵原金谷

庵原軌道(いはらきどう)は、かつて静岡県庵原郡辻村(現・静岡市清水区)の東海道本線江尻駅(現・清水駅)から、庵原郡庵原村金谷(現・静岡市清水区庵原町)の庵原金谷駅を結んでいた軽便鉄道である。

概要

[編集]

1909年明治42年)、庵原郡庵原村出身の衆議院議員で製紙会社社長の西ヶ谷可吉[注釈 1]は「村発展のためには鉄道建設が必要である」として[1]、西ヶ谷を始めとする庵原村、袖師村安倍郡清水町(いずれも現在の静岡市清水区)の有志らが発起人となり、同年12月13日付で庵原軌道敷設特許申請を鉄道院に届け出た[1]。翌1910年(明治43年)4月20日に敷設免許がおり、庵原軌道株式会社が設立。初代社長に西ヶ谷が就任した[2]。当初は馬車鉄道(軌間610mm)を計画していたが、1911年(明治44年)10月14日付で動力を蒸気に、軌間を762mmに変更を行っている[2]

1913年大正2年)12月16日鉄道院東海道本線江尻停車場の西側を起点に、西久保までの区間が開通。翌1914年(大正3年)5月22日に庵原金谷まで開通した。本来はこの先、伊佐布(いざぶ、現・清水区伊佐布)まで路線を計画していたが、道路拡張工事が必要なことや、費用面などに阻まれ断念している[2]

開業当初は物珍しさから乗客が多かったものの、次第に減少し空席が目立つようになった。その頃、辻村から清見寺(現・清水区興津清見寺町)へ至る路線も計画していたが、土地や家屋の買収ならびに移転交渉に手間取り、工事になかなか着手することができなかった[2]。さらに、社長の西ヶ谷が別の事業で多額の負債を抱えてしまい[3]、資金繰りが困難なほど経営は行き詰まった。その上、給料の支払いも滞り、従業員の服装は冬場でも夏服という有様であった[2]。そして再三にわたる給料遅延から、1915年(大正4年)5月12日には運転休止に追い込まれる。従業員は全て休業し、製茶で賃金を得ていたという[2]。同年5月28日には運転を再開するが、翌1916年(大正5年)3月14日に再び運転休止になる。乗客・貨物ともに減少する一方であり、累積赤字の増加から結局、同年6月2日をもって会社は解散。同年7月17日に全線廃止された[4]。開業から廃線までは僅か2年半であり、同じく静岡県に存在した光明電気鉄道よりも短命であった。

路線データ

[編集]

廃止時点

  • 路線距離(営業キロ):5.5km
  • 軌間:762mm
  • 駅数:10(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線、一部併用軌道)
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 動力:蒸気

歴史

[編集]
  • 1909年(明治42年)12月13日 庵原軌道敷設特許願を申請(庵原郡辻村 - 同郡庵原村伊佐布間)[5]
  • 1910年(明治43年)
  • 1911年(明治44年)
    • 10月14日 動力軌間変更願を申請
    • 12月5日 工事施工一部変更願を申請[2]
  • 1912年(明治45年)3月28日 工事施工認可[2]
  • 1912年(大正元年)9月10日 工事開始[2]
  • 1913年(大正2年)12月16日 江尻 - 西久保間開業
  • 1914年(大正3年)5月22日 西久保 - 庵原金谷間開業
  • 1915年(大正4年)
    • 5月12日 運転休止
    • 5月28日 運転再開
  • 1916年(大正5年)
    • 3月14日 再び運転休止
    • 6月2日 会社解散
    • 7月17日 全線廃止
    • 9月30日 軌道特許失効[6]

駅一覧

[編集]

廃止時点、山崎 (1993) および今尾 (2008) による

江尻駅 - 辻学校前駅 - 辻町駅 - 秋葉前駅 - 西久保駅 - 神明前駅[注釈 2] - 庵原役場前駅 - 庵原郵便局前駅 - 庵原新田駅 - 庵原金谷駅

  • 江尻駅は東海道本線江尻駅の西側約50mの辺りに位置していた[注釈 3]
  • 列車交換設備は庵原役場前駅にあった[4]

接続路線

[編集]

事業者名は廃止時点のもの

運行概要

[編集]
  • 江尻始発4時28分・終発22時50分、庵原金谷始発5時30分・終発23時22分[4]
  • 所要時間:全区間32分[4]
  • 運行間隔:毎時30分間隔[4]

車両

[編集]

機関車

[編集]
1 - 3(形式不詳)
1911年10月、ドイツコッペル社で製造された4t4輪連結(車輪配置 0-4-0タンク式蒸気機関車製造番号 4788 - 4790)[7]。同社の日本国内向け機関車としては最小で、コッペル製品としても一番小さかった。廃止後、2両(車番不明)が開業を控えている宮城県城南軌道へ譲渡され[3][注釈 4]、同社の1・2号となった。しかし、性能面や取扱に問題があったためか、早期に廃車された模様である[8]

客車

[編集]
甲型
車番不詳。1913年4月に大日本軌道で製造された4輪貫通式ボギー客車。1両のみ製造。シングルルーフの開放型デッキ構造。定員34人(座席26人)[8]
乙型
車番不詳。1913年4月に大日本軌道で製造された4輪貫通式ボギー客車。2両製造。甲型と同じ構造だが、車体長はやや短い。 定員26人(座席20人)[8]

貨車

[編集]
形式・車番ともに不詳。1913年4月に大日本軌道で製造された4t積みの4輪2枚側ボギー無蓋貨車。3両製造[8]

その他

[編集]
  • 上記の計画路線の他に、辻村の秋葉前から分岐し北街道に沿って、静岡市(現・葵区)宮ケ崎町の浅間神社へと結ぶ路線も計画されていた。しかし、既に大日本軌道静岡支社(現・静岡鉄道静岡清水線)が1908年(明治41年)に鷹匠町(現・新静岡) - 辻村(現・新清水)間を開業させており、既存路線と並行する必要が無いという理由で当局から却下された[2]
  • 廃止からかなりの年月が経過しており、現在では軌道跡とされる道路が名残として残っている以外に、遺構を見つけることはできない[9]
  • 現在はしずてつジャストライン庵原線(241 清水駅前 - 上伊佐布)が当路線とほぼ同じルートを通っている。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 報徳社社長、静岡県議会議員、庵原製紙会社重役、静岡農工銀行取締役、江尻貯蓄銀行取締役、地方森林会議員(略歴は『静岡県静岡安倍庵原馨典人物誌』国立国会図書館デジタルコレクションより)。第6回衆議院議員総選挙にて静岡県2区補欠当選。
  2. ^ 山崎 (1993)では内容の一部が「明神前」と記されているが、誤表記と思われる。
  3. ^ 東海道本線江尻駅は現在の清水駅よりも約350m静岡寄りに位置していたが、1926年(大正15年)7月14日に現在地に移設されている。
  4. ^ 静岡新聞社編『静岡県鉄道物語』(1982年)では大日本軌道の中古で、廃止後に安倍鉄道へ譲渡されたとあるが、これは誤り。

出典

[編集]
  1. ^ a b 山崎 (1993),p.110
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 山崎 (1993),p.111
  3. ^ a b 静岡新聞社 (2006),p.113
  4. ^ a b c d e 山崎 (1993),p.112
  5. ^ 山崎 (1993),pp.110-111
  6. ^ 「軌道特許失効」『官報』1916年9月30日 (国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 沖田祐作『三訂版 機関車表』1996年
  8. ^ a b c d 山崎 (1993),p.113
  9. ^ 山崎 (1993),p.114

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]