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平業房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平業房
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 治承3年(1180年12月
官位 正五位下左衛門佐
氏族 伊勢平氏
父母 父:平盛房
高階栄子[1]
業兼山科教成、女子、女子、女子[2]
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平 業房(たいら の なりふさ)は、平安時代末期の武士斎院司次官平盛房の長男。後白河院近臣

経歴

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法住寺殿行われた今様の会に出席するなど[3]、今様を通じて後白河上皇の寵愛を受けるようになったとみられる[4]

仁安2年(1167年)には衛門尉として建春門院家の侍の中にその名が見え[5]、同年2月には検非違使宣旨を蒙る。仁安4年(1169年熊野御幸に供奉した[6]

安元元年(1175年相模守の官職にあったが、自ら造営した浄土寺に後白河法皇と建春門院の御幸を仰いだ[7]治承元年(1177年)正月に木工頭に任ぜられるが、同年6月に発生した鹿ヶ谷の政変により解官される。この際に多くの院近臣が処分を受けたが、業房だけは後白河法皇の懇願によって平清盛に釈放され、世間に驚きをもって受け取られた[8]

治承3年(1179年)正月に正五位下・左衛門佐に叙任される。しかし、同年11月の治承三年の政変により再び解官され、伊豆国への配流に処されるが、途中で逃亡する[3]。同年12月に清水寺僧房にて兵衛尉・藤原知綱に捕らえられ[9]権大納言平宗盛のもとで拷問を受けた末に殺害された[10]

業房の死後、妻の栄子は後白河法皇に出仕してその寵愛を受けて覲子内親王(宣陽門院)を生んだことで、異父兄である業成の息子も登用されることになった。

文治2年(1186年)7月に浄土寺付近の堂で供養が行われている[10]

肖像画

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神護寺三像などと共に、神護寺が肖像画を所蔵していたと伝わっているが、現存していない。

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 上田ほか 2001, 1085頁.
  2. ^ 藤原 1904, 平氏22-23頁.
  3. ^ a b 阿部 2009, 427頁.
  4. ^ 斉賀万智 2014, p. 25.
  5. ^ 『兵範記』仁安2年正月27日条
  6. ^ 『梁塵秘抄口伝集』巻10
  7. ^ a b c d e 『山槐記』
  8. ^ 「猶以如夢」『玉葉』安元3年6月4日条
  9. ^ 『山槐記』治承3年12月2日条
  10. ^ a b 安田 1985, 359頁.
  11. ^ 『兵範記』
  12. ^ a b 『玉葉』

参考文献

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  • 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 11』吉川弘文館〈故実叢書 第3輯〉、1904年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991593 
  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496 
  • 阿部猛『日本古代人名辞典』東京堂出版、2009年。ISBN 4490107617 
  • 斉賀万智「後白河院説話の周辺に関する一考察―六条西洞院とその周辺の人々の関係性から―」『国文学研究ノート』第53号、神戸大学「研究ノート」の会、2014年10月、17-31頁、doi:10.24546/81008687ISSN 0385-8189NAID 110009921643