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平惟範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平惟範
時代 平安時代前期
生誕 斉衡2年(855年
死没 延喜9年9月18日(909年11月3日
官位 従三位中納言
主君 陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 桓武平氏
父母 父:平高棟、母:藤原有子藤原長良の長女)
兄弟 実雄正範惟範季長信孝藤原房雄
人康親王の娘
時望伊望
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平 惟範(たいら の これのり)は、平安時代前期の公卿桓武平氏大納言平高棟(高棟王)の三男[1]官位従三位中納言

経歴

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貞観16年(874年)三世王の蔭位により従五位下に直叙され、蔵人に任ぜられて清和天皇の退位までの3年間天皇の身近に仕える。翌貞観17年(875年皇太后宮権亮にも任ぜられ、以降清和・陽成光孝宇多四朝の30年近くの長きに亘って、清和天皇の母である皇太后藤原明子にも仕えた。この間、元慶元年(877年)従五位上、元慶4年(880年正五位下仁和2年(886年従四位下、寛平6年(894年)従四位上と順調に昇進する。また、仁和4年(888年)には前年即位したばかりながら、天皇親政に意欲を見せる宇多天皇の要請を受けて、封事七ヶ条を奏上している[2]

醍醐朝延喜2年(902年参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として大蔵卿左兵衛督を兼帯し、この間の延喜4年(904年正四位下に昇叙されている。延喜8年(908年従三位中納言に叙任され、翌延喜9年(909年右近衛大将を兼ねるが、同年9月18日薨去享年55。最終官位は中納言従三位右近衛大将。

人物

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学識に優れ、醍醐天皇の命により貞観から延喜年間までの詔勅類をまとめた『延喜格』の編纂に参画した。

漢詩にも通じ、宇多朝仁和4年(888年)に画師・巨勢金岡御所障子に当代の優れた漢詩人を描いた際、惟範もそのひとりに選ばれている[3]。また、翌寛平元年(889年)に行われた残菊宴で詠んだ漢詩作品が伝わっている[4]

官歴

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注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『公卿補任』
  2. ^ a b 『日本紀略』
  3. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  4. ^ 『雑言奉和』(『群書類従』巻第134所収)

参考文献

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軍職
先代
源光
右近衛大将
909年
次代
藤原忠平