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常磐会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一般社団法人常磐会(いっぱんしゃだんほうじんときわかい)は、学習院女子中・高等科卒業者の同窓会である。会員の資格は2年以上在籍することで、条件を満たせば中退者でもよい。会員数は1万人以上。

会員の資格はあくまで女子高等科の卒業生に限り、戦後新設された学習院女子短期大学(現・学習院女子大学)や学習院大学だけの卒業生は入会を認めていない。年に1回、椿山荘で総会が開かれる。会員には年に2回の会報「常盤」が送られ、5年に1回は文集『ふかみどり』が編まれる。

学習院女子部には一般家庭の生徒が数多く通うが、常盤会の幹部には旧大名家や財閥系などの名家出身者や、代々にわたって学習院女子部に通う家庭の出身者が就任する傾向が強い。

美智子妃の時もそうであったが、皇族女官選びは宮内庁がすべて常磐会に相談し、常磐会ではほぼ会員のなかから選んでいるとされている[1]

1959年昭和34年)に正田美智子皇太子明仁親王に嫁ぐ時、常磐会総裁だった香淳皇后と同会長の松平信子東宮御教育参与皇族や旧華族婦女らが、不快感を露骨に表して反発していたと、当時侍従職にあった入江相政日記[2]に記している[3][4]。しかし、入内から数年後には、当初は好意的であった美智子東宮妃に対する表現やタッチも、その奔放さや勝ち気さに対する、入江自身のいささかの不快感や困惑をも書き留めているように変化している[5]

脚注

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  1. ^ 女性自身1986年1月28日号
  2. ^ 入江死後の1990年に公刊された『入江相政日記』の第3巻 (昭和26年〜昭和40年)(朝日新聞社刊、1990年)
  3. ^ 週刊朝日1993年1月22日号
  4. ^ 露骨な反発の大きな理由の一つとして、正田美智子は学習院ではなくカトリック系の学校(雙葉、聖心)出身者であることが挙げられる。ちなみに、当時の「軽井沢のテニス」を演出(参照先)した皇室会議議員田中耕太郎、東宮参与小泉信三、元総理吉田茂らはいずれもカトリックであり、東宮侍従濱尾実(弟文郎バチカン枢機卿)はじめ松村井上ら女官長、田島道治宮内庁長官、三谷隆信侍従長ら、田島に後任長官職を移譲された宇佐美毅参照先)、そして美智子妃や入江相政自身もカトリックとされ、戦後宮中に信徒が多くいることが当時より指摘されていた。
  5. ^ 『入江相政日記』第3巻 (昭和26年〜昭和40年) 所収の、「昭和37年10月20日」「昭和38年3月23日」「昭和40年3月19日」の記載など参照。

外部リンク

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