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師道大学

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師道大学(しどうだいがく)は、1942年に、かつての満州国吉林省吉林市に設置した国立大学吉林師道大学または国立師道大学と称することもある。

満州国吉林省吉林市郊外の八百壟に校舎があった。満州国の中等教育教員、具体的には、師道学校(初等教育教員の養成学校)、国民高等学校の普通学科及び技能科(音楽体育図画、手工、書道家事裁縫手芸等)教員の養成を目的とした。満州国唯一の高等師範学校であり、満州国の教員養成システムの頂点に位置づけられていた学校である。

沿革

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経緯

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創設時は「吉林高等師範学校」と呼ばれ、1931年満州事変(九・一八事変)以前に張作相が創設した旧吉林大学の跡地に校舎があった。

年表

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学部

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師道大学では、学部学科に相当するものは「班」と呼ばれ、男子部に9班、女子部に4班を設置していた。「日本語」と「軍事訓練」が各班の共通科目となっていた。

  • 男子部
    • 第一班 - 教育
    • 第二班 - 国語(「満語」と呼ばれる中国語と日本語)
    • 第三班 - 歴史地理
    • 第四班 - 数学
    • 第五班 - 物理化学
    • 第六班 - 博物(生物)
    • 第七班 - 美術
    • 第八班 - 音楽
    • 第九班 - 体育
  • 女子部
    • 第一班 - 家事
    • 第二班 - 裁縫手芸
    • 第三班 - 音楽
    • 第四班 - 体育

教職員

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校長(学長とも称する)、教務長、舎監(主に学生の思想、生活を管理)は日本人であり、軍事教官は日本人の現役将校であった。教授や助教授等の主要ポストも日本人が占めていた。講義はすべて日本語で行われた。

学生

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漢族満州族蒙古族の「満系」、朝鮮族の「鮮系」、日本人の「日系」といった形で、民族ごとにはっきりと区別されていた。「日系」については、「大東亜戦ノ勃発ト共ニ日系教師補充不可能トナリタルヲ以テ」[2]1944年度以降に日本人学生の受け入れを開始した。

寄宿舎の地下にある食堂では、テーブルが東西に2列並べられ、一方は日系専用で米飯が出され、もう一方は満系でコウリャントウモロコシが出された。

入学者選抜

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師道大学は1年に約150人を募集し、高級中学程度の学校の卒業生を対象とした。師道高等学校の設立時から11期に渡り学生を募集した。

入学試験は「体力測定」と「口頭試験」から成り、筆記試験は全くなかったという。体力測定は5,000メートル走等3種類あった。5,000メートル走では所定時間内に完走しなければ不合格となった。口頭試験は、約40分間の試験時間に、4~5人の試験官が1人の受験生に質問を行うもので、すべて日本語で行われた。

著名な関係者

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学長

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教員

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脚注

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  1. ^ 『渦流』浦辺栄太郎
  2. ^ 1943年度版『満洲帝国学事要覧』
  3. ^ 熊本大学 五高記念館
  4. ^ a b 2019年1月30日付け紙面より”. 荘内日報 (2019年1月30日). 2019年5月16日閲覧。

関連項目

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参考文献

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  • 大森直樹・金美花・張亜東「中国人が語る『満洲国』教育の実態-元吉林師道大学学生:王野平氏へのインタビュー記録-」『東京学芸大学紀要 第1部門 教育科学 第45集』東京学芸大学、1994年
  • 斉紅深著/竹中憲一訳『「満州」オーラルヒストリー <奴隷化教育>に抗して』皓星社、2004年
  • 「満洲国」教育史研究会『「満洲・満洲国」教育資料集成 第5巻 教育要覧類II』エムティ出版、1993年
  • 嶋田道彌『旧植民地教育史資料集5 満洲教育史』青史社、1982年