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市川満友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
市川満友
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 元亀3年(1572年
死没 寛永14年1月20日1637年2月14日
別名 茂左衛門(通称)
戒名 寒雪
墓所 東京都文京区小石川の慈照院
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康
氏族 市川氏
父母 父:市川内膳正 養父:市川昌倚
駒井昌長
市川友昌須田盛正室、堀内重勝
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市川 満友(いちかわ みつとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本

天正14年(1586年)、15歳の時に徳川家康に仕える。小田原征伐九戸政実の乱関ヶ原の戦い大坂の陣などに参加し、関東入国後は、武蔵国高麗郡(現・埼玉県入間市新久)に陣屋を構えた。後に大番となり、寛永4年(1627年)11月3日、武蔵国高麗郡新久村158石及び新久村開発場20石、都筑郡福島村48石、男衾郡本田郷83石、比企郡古里村30石、下総国香取郡内山村47石及び内野村9石、葛飾郡米谷村40石、七次村3石の6郡において438石余の御朱印状を給い知行する。

満友の子孫は代々尾張徳川家に仕え、現在もなお愛知県 一宮市に子孫が存在する。 家紋は〇の中に一

寛永14年(1637年)1月20日に66歳で死去。法名は寒雪。

参考文献

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