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川久保輝夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川久保 輝夫
生誕 (1923-09-22) 1923年9月22日
日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島市
死没 (1945-01-12) 1945年1月12日(21歳没)
オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド ホーランディア
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1943 - 1945
最終階級 海軍少佐
墓所 鹿児島県鹿児島市の草牟田墓地
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川久保 輝夫(かわくぼ てるお、1923年大正12年)9月22日 - 1945年昭和20年)1月12日)は、日本海軍軍人海兵72期大東亜戦争の末期、人間魚雷回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐

来歴

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1923年大正12年)9月22日鹿児島県鹿児島市で、川久保二之介・静の五男として生まれる。家族は長男から、輝夫の後に生まれた六男まで全員が男兄弟だった。1943年昭和18年)9月15日海軍兵学校海兵72期)を卒業すると、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校普通科学生へ対する発令があり、同年9月6日人間魚雷回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫大尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。

同年11月頃、川久保は一通の手紙を友人だった森本達郎へ送った。それはまもなく出撃するとの内容が記され、同封された写真の裏に「菊水の 鉢巻固く 太平洋 聖戦(おおみいくさ)に 散るぞうれしき」と書かれており、これが川久保の辞世の句とされている。森本によれば、当時は訓練中に負傷したことで治療中だったが、その間に川久保が生還不可能とされていた「回天」特別攻撃隊員として猛訓練の日々を過ごしていることを知り、自らの呑気さに落胆したという。

同年12月21日、「伊-47潜水艦」に「回天」特別攻撃隊金剛隊員として大津島を出航し、ニューギニアへ向かったが、途中の太平洋上で漂流するを発見した。その筏にはアメリカ軍グアム島を占領され、海上を迂回してアメリカ軍の上陸地点を攻撃しようしたものの、海流に押し流されて漂流していた海軍の軍人8名がいたが、川久保は艦長へ「あの(漂流している)8人を助けて下さい。我々はあと数日で確実に死ぬんです。4人の代わりに8人が代わって生還するのはめでたい。着る物は我々のものをやってください」と頼み、8人の漂流者を収容した。

1945年の元旦を熱帯地方の海中で迎えた「伊-47潜水艦」と金剛隊員は、乗員の文芸作品を募集した。その結果、川久保が作詞した「回天金剛隊の歌」[1]が当選し、艦長賞として用意していたビールを獲得した。

  1. 沖の島過ぎ祖国を離れ 敵を求めて浪万里 空母戦艦唯一撃と 今ぞ征で発つ金剛隊
  2. 流れも滑き湊川の 棟の光を今承けて 先に征きたる菊水隊の 挙げし戦果に続かばや
  3. 聖戦も四年の春を 南の海に迎えつつ 必勝のとき今来れりと 先ず魁けん金剛隊
  4. 若き血は湧き内踊るかな 挺身必殺醜敵を 砕き沈めて千代八千代にも すめらみくにを 護りなん — 1945年正月・川久保輝夫作詞、回天金剛隊の歌

同年1月12日未明、ニューギニア北岸ホーランディア付近で、川久保搭乗の「回天」は発進、アメリカの輸送船「ボンタス・ロス」に命中、散華した。享年21。川久保は二階級特進海軍少佐となったが、輝夫の三人の兄(次男・尚忠(1938年5月16日戦死)、三男・三郎(1944年7月12日戦死)、四男・志郎(1944年4月30日戦死))も輝夫と同じ海軍兵学校へ進学し、戦死後に二階級特進で海軍少佐となっている。家族に軍人を出した軍国一家は数多く存在するが、兄弟四人が戦死して揃って海軍少佐へ進級したケースは稀である。

輝夫の墓は、鹿児島市内の草牟田墓地の中の「川久保家之墓」に兄弟と並んで末尾に刻まれている。

脚注

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注釈
出典
  1. ^ この歌は戦時中の歌謡曲だった「流抄の護り」の曲で乗員の愛唱歌となった。

関連項目

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外部リンク

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