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島村孝三郎

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島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年明治8年)3月20日[1][注釈 1] - 1966年(昭和41年)10月24日[3][4])は日本考古学者南満州鉄道で大連図書館の初代館長などを務めたのちに憲政会に所属し、その後は東亜考古学会の幹事として戦後にいたるまで活動した。

生涯

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1875年(明治8年)に生まれる[1]。高校時代は仙台第二高等学校で過ごし、この頃からすでに『東京人類学会雑誌』などに遺跡紹介の論文を掲載している[5]1895年(明治28年)には創設者の一人として奥羽史学会を結成[6]。大学は東京帝国大学法科大学に進み、1897年(明治30年)ごろには国際法学会の発起人の一人となっている[7]。東大法科時代の同級生には中田薫杉栄三郎柳田國男松岡均平遠藤源六らがいる[8]1900年(明治33年)、卒業[3]1901年(明治34年)には『警察協会雑誌』に寄稿しており、この時の肩書は「大学院学生」[9]

大学を去った後は台湾統治に関わる植民地官僚に任じられ[10]1903年(明治36年)に「臨時台湾土地調査局事務官」[11]を務めたのちは遅くとも1904年(明治37年)時点で清国武昌府仕学院の講師となっている[12]1907年(明治40年)に大連に移住し[13]南満州鉄道に入社する[3]。入社2年目のころ、満鉄調査課の次席となった時期に岡松参太郎から図書事務の監督を命令される[14][注釈 2]1911年(明治44年)に日本図書館協会に入会[15]。その後、1918年(大正7年)1月に満鉄大連図書館の初代館長に就任し、翌年7月まで務める[16]。当時、図書館長だけでなく参考品陳列所長を兼務しており、むしろ後者のほうに熱心な様子であった[17]

満鉄を退職後は政治に志し[3]1922年(大正11年)には憲政会政務調査理事に任命される[18]。同年、日本図書館協会を退会している[19]1929年(昭和4年)、西巣鴨町長選に立候補するも落選[20]

これに前後して、1926年(大正15年)に濱田耕作原田淑人とともに東亜考古学会を設立する[21][22]1927年(昭和2年)、日本考古学会に入会[23]。東亜考古学会では幹事として活動し、満鉄やその他の会社から資金援助を得るなど学会の財政面を担当した[24][注釈 3]1944年(昭和19年)には島村が代表として朝日賞を受賞する[26][注釈 4]。中国との事業のほかに、トルコとの文化交換事業を企図するが実現しなかった[27]

戦後になると、日本の考古学者たちは「西の登呂に東のモヨロ」と呼ばれる2つの発掘調査に注目した[28]。島村は登呂遺跡調査会の結成を斡旋し[29]、第1次調査において会計を担当した[30]モヨロ貝塚の調査に対しても「異常な熱意」[31]を見せ、発掘調査にこぎつけた。アイヌ研究、琉球研究、朝鮮研究に関心を持ち[注釈 5]、アイヌ研究者の金田一京助服部四郎や琉球研究者の伊波普猷島袋盛敏、朝鮮研究者の池内宏秋葉隆らに働きかけていたり[34][35][36][37][38]1947年(昭和22年)には自ら「日本民族に近接せる諸民族の言語及び文化等の研究」の題目で科学研究費を取得している[39]。しかし一方で、長田須磨の大和浜(奄美)方言の研究には反対していた[40]

古稀を過ぎて引退していたが[3]、日本考古学会の評議員は晩年まで続けた[41]1966年(昭和41年)10月24日死去[3][4]。享年92[3]

人物

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  • 島村の外見について、水野津太は「背の高くほそ身の和服姿の見るからに学者タイプ」と評している[42][注釈 6]
  • 芳子(旧姓・山本)は短歌をたしなみ、島村が武昌府仕学院の講師だった1904年(明治37年)に嫁いでいる[12]。長女まさ1905年(明治38年)9月12日生まれで、東京府立大三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)卒[45]日本食糧倉庫社長である三須武男の妻で、二男をもうける[45]。長男武一1907年(明治40年)6月10日生まれで、東大機械工学科を卒業後、日本国有鉄道郡山工場長[46]。妻・滋子(旧姓・三木)との間に二男一女をもうける[46]
  • 憲政会に所属していた1924年(大正13年)ごろ、朝夕楽器を鳴らす隣人による騒音で家族とも神経衰弱に陥る。楽器の音による神経衰弱についての日本最初の記録ともされる[47]
  • 愛称は「島孝」[48]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1874年(明治7年)生まれとする文献もある[2]
  2. ^ この後1911年(明治44年)時点で「南満州鉄道調査課図書主任」を務めている[15]
  3. ^ 原田淑人ら東大考古学研究室による1942年(昭和17年)の曲阜魯城の調査でも庶務・会計を担当している[25]
  4. ^ 「蒙古の考古学的研究」として[26]
  5. ^ 服部四郎は琉球研究に「純粋な情熱を燃やし続けた」[32]と評する一方、森豊は島村が北海道と沖縄の古代調査の必要を説いた背景にはいずれ生じ得る領土問題への意識があったと推定している[33]
  6. ^ 『考古学』7巻3号[43]や『モヨロ貝塚:古代北方文化の発見』[44]などに島村の写真が掲載されている。

出典

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  1. ^ a b 人事興信所編 1953, p. し 38.
  2. ^ 相原 2023, p. 7.
  3. ^ a b c d e f g 駒井 1966, p. 68.
  4. ^ a b 満鉄会情報センター 1967, p. 15.
  5. ^ 藤沼 1981, p. 8.
  6. ^ 第二高等学校尚志会 1895, pp. 54–55.
  7. ^ 法典質疑会 1897, p. 44.
  8. ^ 中村 1960, p. 105.
  9. ^ 島村 1901, p. 56.
  10. ^ 若林 2017, p. 66.
  11. ^ 官報』1903年02月05日, p. 2.
  12. ^ a b 竹柏会 1904, p. 68.
  13. ^ 島村 1933, p. 18.
  14. ^ 島村 1937, p. 364.
  15. ^ a b 日本図書館協会編 1911, p. 60.
  16. ^ 満鉄残務整理委員会 1977, p. 759.
  17. ^ 橋本 1937, p. 389.
  18. ^ 憲政会本部編 1922, p. 82.
  19. ^ 日本図書館協会編 1922, p. 42.
  20. ^ 豊島区議会史編纂委員会編 1987, p. 71.
  21. ^ 坂詰 1994, p. 2.
  22. ^ 原田 1970, p. 38.
  23. ^ 日本考古学会 1927, ページ番号なし.
  24. ^ 三宅&鈴木 1977, p. 252.
  25. ^ 駒井 1977, p. 21.
  26. ^ a b 朝日賞 1929-1970年度|朝日新聞社の会社案内”. 2024年12月31日閲覧。
  27. ^ 小林 1948, p. 110.
  28. ^ 米村 2004, p. 29.
  29. ^ 八幡 1950, p. 258.
  30. ^ 日本考古学協会編 1954, p. 2.
  31. ^ 斎藤 1963, p. 5.
  32. ^ 服部 1978, p. 8.
  33. ^ 森 1974, p. 141.
  34. ^ 金田一 1948, p. 1.
  35. ^ 人文科学研究院 1948, p. 111.
  36. ^ 服部 1964, p. 5.
  37. ^ 服部 1976, p. 13.
  38. ^ 若林 2017, pp. 66–67.
  39. ^ 国立国語研究所編 1963, p. 1.
  40. ^ 長田 1977, p. 9.
  41. ^ 日本考古学会 1965, ページ番号なし. など。
  42. ^ 水野 1986, p. 45.
  43. ^ 東京考古学会 1936, p. 95.
  44. ^ 米村 1969, p. 170.
  45. ^ a b 人事興信所編 1955b, p. み 14.
  46. ^ a b 人事興信所編 1955a, p. し 40.
  47. ^ 憲政会本部編 1924, p. 39.
  48. ^ 梅原 1973, p. 149.

参考文献

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関連項目

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