岩松豊純
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 元亀3年(1572年) |
死没 | 正保3年3月12日(1646年4月27日) |
別名 | 治部少輔、満次郎 |
戒名 | 陽徳院殿真如源清大居士大居士[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
氏族 | 岩松氏(新田氏) |
父母 | 父:岩松守純、母:金井右馬允の娘 |
兄弟 | 清純、豊純、純俊、脇屋宗度、脇屋重政 |
妻 | 根岸三河守の娘 |
子 | 岩松秀純、岩松義勝、朝海、脇屋貞常 |
岩松 豊純(いわまつ とよずみ)は、上野国の戦国大名、江戸幕府旗本。新田岩松氏の当主。父は岩松守純。子に岩松秀純。
人物
[編集]岩松守純の嫡男とされるが、岩松清純という兄がいたともされる。病弱であったとも伝わり、戦役や政治向きの話に乏しい。寛永18年(1641年)、それまで名乗っていた新田の名乗りを岩松に戻した。これが自主的であるか幕命であるかは定かではない(下記の逸話参照)。
逸話
[編集]徳川家康が関東へ入国した頃には既に父の守純は隠居しており豊純はいわば浪人状態であった。1596年、父の守純が桐生市市野井に移住するとこれに従い、1607年には武蔵国川越に鷹狩りに来ていた家康に召しだされ、守純と共に謁見した。この際に守純は新田氏の家系図を持参しており、岩松氏は新田氏の本流の子孫であると主張した。自身も新田氏末裔を称する家康が「真偽を確かめる為、その家系図を一晩貸して欲しい」と頼んだが、「何か細工をされるのではないか」と恐れた守純は拒否し退席した。また席中で「本家は岩松であり、徳川が先祖と称する人物は妾腹の傍系」と発言したとも伝わる。ともあれ、家康は岩松氏に市野井20石しか与えなかった。ただしこれは巷談の範疇でしかなく、正式な資料として確認されている話ではない。
脚注
[編集]- ^ 太田市 編『太田市史 史料編 中世』1986年、1061頁。doi:10.11501/9643849 。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千二百十六