岩月収二
岩月 収二 いわつき しゅうじ | |
---|---|
生年月日 | 1918年1月15日 |
出生地 | 愛知県安城町 |
没年月日 | 2005年9月7日(87歳没) |
出身校 |
陸軍航空技術学校 自治大学校 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 勲四等瑞宝章 |
安城市長 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1979年2月15日 - 1991年2月14日 |
岩月 収二(いわつき しゅうじ、1918年(大正7年)1月15日[1] - 2005年(平成17年)9月7日)は、日本の政治家。元愛知県安城市長(3期)。
来歴
[編集]愛知県安城町(現・安城市)出身。安城町立青年学校を経て、1938年(昭和13年)3月に満州国公主嶺陸軍航空隊第七教育隊に入隊。1941年(昭和16年)3月、陸軍航空技術学校卒業。1944年(昭和19年)7月、少尉候補者試験に合格[2]。
1946年(昭和21年)、安城町役場に奉職。1958年(昭和33年)、自治大学校卒業。総務部長時代、東海道新幹線建設に先立って用地買収に奔走した[3]。1969年(昭和44年)5月、助役に就任[2][4]。
1979年(昭和54年)の安城市長選に向けて、「市長選はしこりが残るような争いをしない方がいい」と考えた杉浦正行県議が中心となり、候補者擁立を目的とする団体「住みよい安城をつくる市民の会」が作られる。同団体は旧愛知4区の自民党代議士、保守・中道の市議、商工会、町内会などで構成され、擁立された岩月は1月26日告示・2月4日投票の市長選に自民党・民社党の推薦、公明党の支持を受けて立候補。無投票で初当選した[5][6]。
地元主要団体の統一候補として当選したものの、中野四郎衆議院議員の腹の虫は収まらなかった。岩月は浦野烋興系列と見なされており、中野直系の都築義幸市議を対抗馬に推す話が流れためであった。市長選直後の同年3月、中野は自派の安城市議6人を碧南市本郷町の事務所に呼びつけ、「お前たちは一体何をしてたんだ。なぜ(中野派から)候補者を出さなかったのだ」と激しく叱責した。代表格の石川修市議に対しては「お前は県議選に出たいと言っているそうだな。まだ早い。やめておけ」とさらに高圧的な態度をとった。これが原因で同市議6人は全員、1980年(昭和55年)の総選挙で中野から離反した[7][8]。
西三河を中心にした9市6町で構成する「東海道新幹線三河新駅新設期成同盟会」の会長として三河安城駅の開業に力を尽くした[9]。3期市長を務め1991年(平成3年)に勇退。後任の市長には杉浦正行県議が名乗りを上げ[10]、無投票で当選した。同年、勲四等瑞宝章を受章[3]。
2005年(平成17年)9月7日、肺炎のため死去[4]。87歳没。
脚注
[編集]- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、239頁。
- ^ a b 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日、506頁。
- ^ a b 『日外アソシエーツ whoplus』 「岩月収二(イワツキ シュウジ)」の項
- ^ a b 『中日新聞』2005年9月8日付朝刊、33面、「岩月収二氏死去」。
- ^ 『中日新聞』1991年1月6日付朝刊、30面、「91地方発 選挙と政治 だから出る (5) 転身の穴 党派超え暗黙のバトン」。
- ^ 『東海愛知新聞』1979年1月27日、1面、「岩月氏が無投票当選 安城市長選 立候補届け締め切る」。
- ^ 『朝日新聞』1980年7月16日付朝刊、18面。
- ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (88) 見舞い 病床へ封筒で十万円」 『朝日新聞』1981年3月28日付朝刊、三河版西。
- ^ 『中日新聞』1987年5月28日付夕刊、2面、「新駅名称は『三河安城』 期成同盟会決める」。
- ^ 『中日新聞』1990年12月4日付朝刊、県内版、14面。