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岡野 成韶(おかの しげつぐ、元文2年(1737年) - 文化14年3月10日(1817年4月25日))は、江戸時代中期の旗本。通称、豊五郎、兵庫、登。岡野成路の二男[1]。。妻は中山直影の娘。兄に成信、弟に成式がいて、後に成式を養子として迎えている[1]。子に娘(岡野知鄰の妻)がいる[1]。
兄・成信が早くに亡くなったため、安永2年(1773年)11月29日、37歳で家督を継ぐ。石高は1500石。同年12月22日、徳川家治に御目見する[1]。
文化14年(1817年)3月10日死去。墓所は大林寺、戒名は泰量院殿雄学義範大居士[2]。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』第3輯 巻508 国民図書、706頁。
- ^ 横浜市教育委員会社会教育部文化財課 編『横浜の文化財 第3集 (横浜市指定・登録文化財編)』横浜市教育委員会、1994年、p.62。