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岡野成旭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡野 成旭(おかの なりてる、生年不詳 - 享保5年6月15日1720年7月20日))は、江戸時代中期の旗本岡野成明の次男。母は加藤正重の娘。岡野氏直系の子孫。初名は房明。通称は平九郎、平左衛門[1]。妻は長谷川正相の娘[1]。子に将致房安猪子一乗猪子一縄の養子)、娘(桑島親能の妻)らがいる[1]

経歴

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岡野成明の次男として生まれる。明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱に初の御目見得を果たす[1]

寛文3年(1663年)11月19日、御小姓組に列する。後に岡野成恒の養子となる。同10年(1670年)6月10日、養父・成恒が知行を賜ると、成旭も350石に加えて廩米600俵を賜る[1]

天和元年(1681年)4月、阿部正邦丹後国宮津藩に、土井利益志摩国鳥羽藩に転封する際、曾我仲祐とともに同地に赴いて台命を告げる。同3年(1683年)8月23日、御徒頭となり、同年12月15日に布衣の着用を許される[1]

元禄7年(1694年)4月14日、目付に就任する。同9年(1696年)3月28日、御船手になる。同10年(1697年)7月26日、下総国葛飾郡武蔵国葛飾郡・伊豆国賀茂郡3郡の内から、600石の領知を賜り、合わせて950石を知行された。同14年(1701年)8月21日、務めにかなわざることがあったとして、小普請入となる[1]

宝永6年(1709年)10月23日、致仕する。享保5年(1720年)6月15日、死去。法名は日久。高田の亮朝院に葬られる。同地は、後に代々の葬地となる[1]

生年は不明だが、岡野成明岡野成恒の生年死没、行動を他と見ると1633年〜1655年までには、生まれていたと推測される。[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 寛政重修諸家譜』第3輯 国民図書、1923年、706-707頁。

出典

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