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岡野成方

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岡野 成方(おかの なりかた、元禄10年(1697年) - 享保18年4月4日1733年5月17日))は、江戸時代中期の旗本岡野成勝の二男。別名、長五郎、内蔵允[1]。妻は伊丹勝友の娘。子に岡野成路、娘(長崎元享の妻)がいる[1]

経歴

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はじめ岡野成勝の二男として生まれる。後に房勝の養子となる[1]

宝永2年(1705年)、9歳で家督相続し、寄合となる。同年3月28日、徳川綱吉に初の御目見を果たす。その後、甲斐国八代郡の領地が駿河国富士郡へと移される[1]

享保11年(1726年)11月6日、火事場見廻を務める。翌12年(1727年)8月28日、御使番を務め、12月28日に布衣の着用を許される[1]

翌13年(1728年)、徳川吉宗日光社参に扈従する。翌14年(1729年)5月28日、松平信祝遠江浜松城を賜ったときに、現地へ赴き厳命を伝える[1]

享保18年(1733年)4月4日、37歳で死去[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 寛政重修諸家譜』第3輯 国民図書、706頁。

出典

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