岡田小七
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岡田小七(おかだ こぜき、1886年(明治19年)7月19日 - 1936年(昭和11年)10月12日)は、日本の馬術選手、陸軍軍人。1928年アムステルダムオリンピックに出場した。
経歴
[編集]1886年7月19日、東京府(現在の東京都)の平民の家に生まれる[1][2][3]。1902年9月、仙台陸軍幼年学校に第5期生として入校する[3]。1907年12月1日、陸軍士官学校に第21期生として入校し、第1師団第15連隊に配属される[4]。その後、陸軍騎兵学校を卒業し[2][1]騎兵少佐となる[2]。1927年5月末、陸軍内で翌年のオリンピックに向けた予選が行われ、参列将校として選出された[5]。1928年アムステルダムオリンピックでは馬術競技の日本代表として、「涿秋」という名前の馬で馬場馬術個人に出場したが、得点は193.70点で20位に終わった[6]。その後は千葉県千葉郡津田沼町(現在の習志野市)に居住し、農林技師として畜産局畜政課に勤めた[7]。1935年の時点では千葉県東葛飾郡八幡町に居住していた[2]。1936年10月7日朝、調教中に落馬し内出血を起こしたために順天堂病院で治療を受けていたが、12日0時に死去、10月14日に告別式が行われた[8]。
人物
[編集]脚注
[編集]- ^ a b Kozeki Okada Olympedia(2023年7月31日閲覧)
- ^ a b c d 毎日新聞社 編『毎日年鑑 1935』毎日新聞社、1934年 342ページ
- ^ a b 『仙台陸軍地方幼年学校一覧』仙台陸軍地方幼年学校、1903年 70ページ
- ^ 『官報 1907年12月12日』大蔵省印刷局 9ページ
- ^ 毎日新聞社 編『毎日年鑑 1928』毎日新聞社 83ページ
- ^ Individual, MenOlympedia(2023年7月31日閲覧)
- ^ a b 中外新報社, 時事通信社 編『大日本人事録 : 全国銀行会社附記 昭和9年版』中外新報社、1934年 「う、え、お、かの部」2ページ
- ^ 『朝日新聞』1936年10月13日夕刊2面