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岡田太郎 (実業家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おかだ たろう

岡田 太郎
生誕 (1930-07-20) 1930年7月20日
日本の旗 日本東京府
死没 (2024-09-03) 2024年9月3日(94歳没)
日本の旗 日本東京都
死因 胆嚢癌
職業 テレビプロデューサー実業家
配偶者 吉永小百合
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岡田 太郎(おかだ たろう、1930年(昭和5年)7月20日 - 2024年(令和6年)9月3日)は、日本のテレビプロデューサー実業家フジテレビ創成期にドラマ制作に携わり、1995年から1999年まで共同テレビジョンの社長を務めた。妻は女優吉永小百合

来歴

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1930年7月20日、東京に生まれる[1]

旧制都立高校卒業[2]1954年、勤務していた総理府の付属機関、国立世論調査所が閉鎖。同調査所からの紹介で、文化放送に入社[3]

1958年、文化放送・ニッポン放送と映画会社3社が母体となり開局準備を進めていたフジテレビジョンに移籍。1959年3月1日の開局の8日後の3月9日にスタートする、全26話のドラマ『陽のあたる坂道』の演出を担当した。次いで、1960年には『日日の背信』の演出を担当。文化放送在籍時に、平日朝9時台に放送していた主婦向けのラジオドラマからヒントを得た、いわゆる「よろめきドラマ」と呼ばれる昼ドラであった。アップを多用した演出は情感を生み、好評を博した。

1964年吉永小百合の代表作の一つとなる『愛と死をみつめて』が公開。岡田は、公開直後に制作された同作のドキュメンタリー番組のプロデューサーを担当し、吉永と知り合うこととなった。彼女は当時19歳で、1週間のヨーロッパの旅に同行する中で、岡田は吉永の素直さに驚かされた[4]。その9年後、1973年に岡田と吉永は結婚した。人気絶頂の女優の、15歳差の年の差婚は世間を驚かせ[4]、岡田・吉永夫妻は第11回ゴールデン・アロー賞の話題賞を受賞した[5]

1981年から『時代劇スペシャル』のプロデューサー、1984年に編成局次長を務めたのち、1985年に取締役として共同テレビジョンに移る。1995年には代表取締役社長に就任。1999年には会長となり、2001年からは2003年に退任するまで相談役に就いた[1]

2023年12月に胆嚢癌が見つかり、療養を続けていたが、2024年9月3日に東京都内の病院で死去した。94歳没。吉永は地方での仕事を終え病院に駆け付け、最期を看取ることができた[6]

脚注

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  1. ^ a b "【訃報】吉永小百合さんの夫・岡田太郎氏(94)死去 共同テレビジョン社長・会長を歴任". TBS NEWS DIG. TBS. 2024年9月13日. 2024年9月15日閲覧
  2. ^ 表情の細かな変化を伝える演出法から「アップの太郎」の異名も 吉永小百合の夫・岡田太郎さんの功績”. スポーツ報知 (2024年9月14日). 2024年9月18日閲覧。
  3. ^ 岡田太郎さん “アップの太郎”に“昼メロ”定着…テレビ史に功績残した敏腕プロデューサー”. スポニチアネックス (2024年9月14日). 2024年9月18日閲覧。
  4. ^ a b 戸部田誠 (2021年12月24日). "てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「岡田太郎」篇". VR Digest+. 2024年9月15日閲覧
  5. ^ GOLDEN ARROW AWARDS 受賞者一覧 (PDF)
  6. ^ "【訃報】「大往生だと思います」吉永小百合さんの夫で元共同テレビ会長のドラマ制作者・岡田太郎氏が死去 94歳". FNNプライムオンライン. 2024年9月13日. 2024年9月15日閲覧