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岡上守道

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岡上 守道(おかのえ もりみち、1890年1月28日 - 1943年4月28日)は日本の記者、労働運動家木曜会新人会の参加者。クロポトキンレーニンにちなむ黒田 礼二(くろだ れいじ)の筆名で知られる。

略歴

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高知県長岡郡大篠村(現・南国市)出身[1]第一高等学校卒業。東京帝国大学新人会(前期新人会)に参加。また、麻生久らの木曜会に参加する。1916年に東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、満鉄東亜経済調査局に勤務し、ロシア革命について研究[1]。1920年の第2回ILO総会に政府代表嘱託として参加後、大阪朝日新聞モスクワ特派員、ベルリン特派員などを歴任[1]。1922年のプロフィンテルン第2回大会において山本懸蔵の通訳として活躍。1936年に帰国し、朝日新聞社を退社[1]。1940年まで東京銀座で日独交流誌『日独旬刊』を刊行[2]。のち高知新聞などを経て、1942年に衆議院議員に立候補するも落選し、1943年に海軍に召集される[2]。同年、ボルネオに渡航途中、乗っていた船が撃沈されて死去した[1]

家族

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実父の岡上周蔵は安芸市捕鯨会社を経営していたが、早くに亡くなった[2]。母の兔恵は夫の死後、東豊永村(現・大豊町粟生)に転居し裁縫教師となり、地元の実力者・三谷彦衛門と再婚した[2]。ベルリン特派員時代にドイツ人女性シャルロッテ・コルベルクと知り合い、妻子と別れてシャルロットと1928年に再婚し、娘のアントニア浪江をもうける[2]。シャルロットと娘は日本に帰化したが、守道没後アメリカへ渡った[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e 岡上 守道 オカノエ モリミチ20世紀日本人名事典
  2. ^ a b c d e f 「国際人」黒田礼二 : 高知との関係を中心に依岡隆児、徳島大学言語文化研究、2016-12

外部リンク

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