山野村 (広島県)
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やまのむら 山野村 | |
---|---|
山野民俗資料収蔵庫として保存されている旧山野村役場 | |
廃止日 | 1955年(昭和30年)3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 山野村,広瀬村,加茂村 → 加茂町 |
現在の自治体 | 福山市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 広島県 |
郡 | 深安郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
3,400人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 |
神辺町、広瀬村、神石郡 : 来見村、仙養村 岡山県 : 井原市、後月郡芳井町 |
山野村役場 | |
所在地 | 広島県深安郡山野村 |
座標 | 北緯34度39分13秒 東経133度23分25秒 / 北緯34.65358度 東経133.39033度座標: 北緯34度39分13秒 東経133度23分25秒 / 北緯34.65358度 東経133.39033度 |
ウィキプロジェクト |
山野村(やまのむら)は、かつて広島県深安郡(旧安那郡)にあった村である。現在の福山市山野町にあたる。
地理
[編集]- 河川 : 小田川
歴史
[編集]1889年(明治22年)、町村制施行前にあった山野村と矢川村の安那郡2村が合併し、町村制施行による山野村となる[1]。
沿革
[編集]行政
[編集]村長
[編集]代 | 氏名 | 就任 | 出典 |
---|---|---|---|
1 | 宮本幸次郎 | 1889年(明治22年)4月 | [4] |
2 | 藤井富貴太 | 1891年(明治24年)4月 | [4] |
3 | 藤井貫郎 | 1902年(明治35年)4月 | [4] |
4 | 藤井富貴太 | 1917年(大正6年)4月 | [4] |
5 | 菅田賢一 | 1920年(大正9年)4月 | [4] |
6 | 三木億太郎 | 1924年(大正13年)4月 | [4] |
7 | 菅田賢一 | 1925年(大正14年)4月 | [4] |
8 | 藤原政一 | 1929年(昭和4年)4月 | [4] |
9 | 水田喬一 | 1933年(昭和8年)4月 | [4] |
10 | 世良智一 | 1946年(昭和21年)4月 | [4] |
11 | 島谷真三 | 1952年(昭和27年)4月 | [4] |
議長
[編集]代 | 氏名 | 就任 | 出典 |
---|---|---|---|
1 | 江草蔵治 | 1947年(昭和22年)4月 | [4] |
2 | 藤井清 | 1949年(昭和24年)4月 | [4] |
3 | 松井佐十 | 1951年(昭和26年)4月 | [4] |
4 | 佐々木孝一 | 1952年(昭和27年)4月 | [4] |
編入問題
[編集]村政において岡山県へ編入する動きが幾度も発生した。1896年(明治29年)には、岡山県による編入の動きが起きたものの、村全戸の調印で合併反対、広島県存置の陳情書を提出し、編入を回避[5]。1947年(昭和22年)12月25日には、村による「大谷堀切隧道期成委員会」が開かれた際に、七曲隧道[注 1]の建設をめぐって隧道開削よりも岡山県へ編入するほうが村の将来のために有利だとの動議が出たものの、1948年(昭和23年)1月1日に開催された「山野村民大会」にて討論の結果、隧道開削を広島県に陳情することとし、編入を断念[6]。1955年(昭和30年)の加茂村との合併をめぐっても岡山県編入が浮上し、自治庁は「県境を越えての合併は考えておらぬ。」とし、大原博夫広島県知事は「将来岡山県合併が容易に出来る時機が来たら山野村民の意見を尊重する。」としていたが、合併前の2月26日に村民一戸一票の住民投票で広島県内での合併が賛成多数となり、同日午後の村議会で山野村・加茂村・広瀬村との合併協定を決議[7]。岡山県に編入することなく、広島県内での合併となり廃村となった。
地域
[編集]学校
[編集]交通
[編集]バス
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現・広島県道21号加茂油木線「新七曲トンネル」に並行する旧道。閉鎖され廃道となっている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 「やまの」編集委員会 著、山野民俗資料保存会 編『やまの - 福山市山野町の民俗 -』福山市文化財協会、1990年。
- 島谷真三『山野明治百年史』山野郷土資料保存会、1973年。
- 楠務『備後加茂』中国観光地誌社、1970年。