山田精吾
山田 精吾(やまだ せいご、1930年3月18日 - 1996年2月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家[1]。日本労働組合総連合会(連合)初代事務局長。
経歴
[編集]宮崎県延岡市生まれ[2]。1946年旧制延岡中学校卒[3]。1948年旭化成工業(現旭化成)ダイナマイト工場に入社[2]、全旭化成労働組合連合会(全旭連)ダイナマイト労組書記長[4][5]。同年の旭化成争議では青年行動隊長として活躍し[6]、ダイナマイトを腹に括りつけて経営側と対峙したことから「ダイナマイト男」の愛称が生まれた[3]。1950年全旭連ダイナマイト労組執行委員。1951年同労組書記長、副委員長に選出され、全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)化繊連合会に書記として出向。1952年全旭連執行委員。1959年全繊同盟東海事務所常任書記。1961年全繊同盟組織部中央オルグ。1965年全繊同盟中央執行委員・組織部長。1967年大阪府支部次長、1968年支部長[3]。1973年全繊同盟書記長に選出され、「ゼンセン同盟」への名称変更を提案・実現した[7]。1978年3月政策推進労組会議(政推会議)事務局長[8]、同年9月ゼンセン同盟副会長[9]。1981年3月第二次臨時行政調査会(第二臨調)第一部会専門委員[10]。
1982年11月全日本民間労働組合協議会(全民労協)事務局長。1987年11月全日本民間労働組合連合会(民間連合)事務局長[3]。1989年7月の第15回参議院議員通常選挙では「連合の会」の候補者11人を当選させた[7]。また各産別から政推会議、全民労協に派遣された人材の教育にあたり、多くの後輩指導者を育成した[3][7]。1989年11月日本労働組合総連合会(連合)初代事務局長[3]。連合総合生活開発研究所(連合総研)、国際労働財団を創設[7]。1993年11月連合事務局長を退任[8]。1994年連合総研理事長[3]。連合顧問、ゼンセン同盟顧問、税制調査会委員、経済審議会委員も務めた[1]。1996年交通事故により死去、65歳。同年勲二等瑞宝章を受章[3]。
1984年に山田が作詞、麻峰良介が作曲した演歌「銀が泣いている」が沢竜二の歌でビクターからレコード化された[11]。
著書
[編集]- 『政策と運動』(小林謙一共著、教育社[現代の労働組合主義3]、1982年)
- 『単身赴任をどうとらえるか』(工藤秀幸、久谷與四郎、北村金三、鹿島敬、橋田保正、今井保次共著、日本生産性本部、1984年)
- 『「連合」のすべて』(監修、高梨昌、加藤敏幸、鷲尾悦也編、エイデル研究所、1990年)
追想集
[編集]- 「追想山田精吾」刊行委員会編集『目線を大切に――運動家山田精吾の生涯』(教育文化協会、1997年)
- 「追想山田精吾」刊行委員会編集『追想山田精吾』(「追想山田精吾」刊行委員会、1997年)
脚注
[編集]- ^ a b 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ^ a b 山田精吾監修、高梨昌、加藤敏幸、鷲尾悦也編『「連合」のすべて』エイデル研究所、1990年
- ^ a b c d e f g h ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史Ⅹ――全民労協の発足から連合結成へ』教育文化協会、発売:第一書林、1999年、27頁
- ^ 角間隆『ドキュメント日本の支配階級 労働界篇』PHP研究所、1981年
- ^ 政策研究大学院大学C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト『生産性運動オーラル・ヒストリー 労働部編 第1巻』政策研究大学院大学、2003年
- ^ 芦村庸介『大企業労使の喧曄祭り――みこしを先導する若衆頭たち』日本労働協会、1982年
- ^ a b c d 高木郁朗『ものがたり現代労働運動史1 1989~1993――世界と日本の激動の中で』明石書店、2018年、21頁
- ^ a b 日本労働研究機構編『ネオ・コーポラティズムの国際比較――新しい政治経済モデルの探索』日本労働研究機構、1994年
- ^ 労働省編『資料労働運動史 昭和53年』労務行政研究所、1982年
- ^ 関恒義、室井力編『臨調行革の構図』大月書店、1982年
- ^ ゼンセン同盟史編集委員会編『ゼンセン同盟史 第9巻 1981~1985』ゼンセン同盟、1986年