コンテンツにスキップ

山東直砥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山東一郎から転送)
山東 直砥
1840年天保11年2月7日) - 1904年明治37年)2月14日
諡号 三栗
生地 紀伊国
宗派 高野山真言宗
テンプレートを表示

山東 直砥(さんとう なおと、1840年天保11年2月7日〉 - 1904年明治37年〉2月14日)は、高野山真言宗僧侶尊王攘夷派志士教育者。号は三栗。

曾孫は参議院議長を務めた山東昭子。娘婿に斯波淳六郎児玉亮太郎[1][2]

経歴

[編集]

紀伊国出身。和歌山藩士栗栖儀平の長男として生まれたが、母方の姓を冒した。幼名は長之助。

数え13歳頃より高野山真言宗僧侶として修行していたが、還俗して山東一郎を名乗り、播州河野鉄兜に師事。そこで知遇を得た松本奎堂に従い大坂へ上り、松本らが開いた双松岡塾の学僕となった。閉塾後も師とともに京へ移り、尊王攘夷志士として活動。松本奎堂が天誅組として決起・自裁後は、江戸へ向かった。江戸で知り合った奥詰医師松本良順の勧めで、幕府海軍伴鉄太郎の塾で外国事情を知るために蘭学を志したが挫折。当時国境を侵さんとする帝政ロシアの国情を知ることの方が急務と思い至り、慶応2年、松本らの伝手で幕吏の従者として箱館へ渡って伝道師ニコライよりロシア語を学んだ[3][4]

明治維新後の1868年明治元年)、岡本監輔小野淳輔堀真五郎・宇野監物らとともに箱館裁判所在勤の内国事務局権判事に徴されたが[5]、翌年、貿易商柳田藤吉が東京の早稲田に創設した北門社新塾の塾主として招かれ、教育・出版事業に従事[6]1871年(明治4年)には神奈川県参事に任じられた[7]

1904年明治37年)2月14日、死去。享年65。墓所は青山霊園

著作

[編集]
  • 悔改事歴(山東口述・宮崎八百吉筆記、堀卯三郎、1892年)

脚注

[編集]
  1. ^ 斯波淳六郞 (初版) - 『人事興信録』データベース
  2. ^ 兒玉亮太郞 (第4版) - 『人事興信録』データベース
  3. ^ 大植四郎編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年、709頁。
  4. ^ 『悔改事歴』5-15頁。
  5. ^ 『函館市史 通説編』第2巻、1990年、80頁(第4編第1章第1節1清水谷総督の赴任)。
  6. ^ 柳田藤吉口述・大久保湘南筆記「経歴談」北海道大学附属図書館北方資料室所蔵。
  7. ^ 1969年,平凡社『明治東京逸聞史1』