山本鶴一
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山本 鶴一 | |
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生誕 |
1875年12月15日 日本 島根県楯縫郡 (出雲市) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1897年 - 1933年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
山本 鶴一(やまもと かくいち[1]、1875年〈明治8年〉12月15日[2] - 没年不明[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[1]。
経歴
[編集]島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村[3](現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した[4]。
松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業[3]。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し[1]、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる[1][5]。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学[6]。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された[6]。その後、イギリスに留学し、インド駐在も務めた[3][6]。
1918年(大正7年)7月、朝鮮軍参謀に就任し、1919年(大正8年)4月、歩兵大佐に昇進[1]。同年12月、歩兵第39連隊長に就任[1]。第5師団参謀長を経て、1923年(大正12年)8月、陸軍少将に進み歩兵第18旅団長となる[1][2]。
教育総監部付、陸軍戸山学校長を経て、1928年(昭和3年)8月、陸軍中将に進み陸軍歩兵学校長に就任[1][2]。1930年(昭和5年)8月、第16師団長に親補された[1][2]。1933年(昭和8年)3月に待命となり、同年同月、予備役に編入された[1][2]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第9版』1931年。
- 島洋之助編『人材・島根 : 県人名鑑』島根文化社、1938年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。