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山本鶴一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本 鶴一
生誕 1875年12月15日
日本の旗 日本 島根県楯縫郡
(出雲市)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1897年 - 1933年
最終階級 陸軍中将
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山本 鶴一(やまもと かくいち[1]1875年明治8年〉12月15日[2] - 没年不明[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[1]

経歴

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島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村[3](現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した[4]

松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業[3]1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し[1]1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる[1][5]1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学[6]日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された[6]。その後、イギリスに留学し、インド駐在も務めた[3][6]

1918年(大正7年)7月、朝鮮軍参謀に就任し、1919年(大正8年)4月、歩兵大佐に昇進[1]。同年12月、歩兵第39連隊長に就任[1]第5師団参謀長を経て、1923年(大正12年)8月、陸軍少将に進み歩兵第18旅団長となる[1][2]

教育総監部付、陸軍戸山学校長を経て、1928年(昭和3年)8月、陸軍中将に進み陸軍歩兵学校長に就任[1][2]1930年(昭和5年)8月、第16師団長に親補された[1][2]1933年(昭和8年)3月に待命となり、同年同月、予備役に編入された[1][2]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』142頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』776頁。
  3. ^ a b c 『人材・島根 : 県人名鑑』382頁。
  4. ^ a b 『人事興信録 第9版』ヤ159頁。
  5. ^ 『官報』第4498号、明治31年6月29日。
  6. ^ a b c 『日本陸海軍総合事典 第2版』555頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』1931年。
  • 島洋之助編『人材・島根 : 県人名鑑』島根文化社、1938年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。