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山口組と西海組の抗争事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山口組と西海組の抗争事件(やまぐちぐみとさいかいぐみのこうそうじけん)は、1950年(昭和25年)9月、兵庫県神戸市で起った三代目山口組地道組西海組暴力団抗争事件

抗争勃発まで

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1948年9月、自転車競技法が施行された。

同年11月、神戸市西宮市甲子園明石市競輪が開催された。大島組本多会本多仁介会長、西海組小田組中山組、三代目山口組田岡一雄組長が神戸競輪場の警備担当を求めた。大島組と西海組が、神戸競輪場の警備を担当することになった。他の組も、神戸競輪場で、予想屋、売店、タクシー、自転車預かりなどの職を分け合った。

1950年9月、三代目山口組地道組地道行雄組長は、神戸競輪場の施行主任に仕事を回すように要求した。神戸競輪場の施行主任は、地道行雄の要求を飲んだ。西海組は、地道行雄に、神戸競輪場の仕事の一部を奪われた。

抗争の経緯

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翌日、西海組組員数人が報復として地道行雄の自宅に殴り込みをかけた。地道行雄の妻子は、地道の若衆と外出していて、自宅には地道1人だけがいた。地道行雄は、ドスで斬られて重傷を負ったが、日本刀で西梅組組員1人を斬り、西海組組員を退散させた。

数日後、地道行雄は地道組組員に西海組若頭・舎弟頭ら幹部4人と西海組組員7人を拉致させた。地道行雄は拳銃を持参し、地道組組員数人を連れて西海組事務所に乗り込み、西海組組長と会談した。西海組組長は、地道行雄に、神戸競輪場での警備などの仕事を譲った。田岡は西海組から神戸競輪場での警備などの仕事を手に入れた。

参考文献

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