山内豊雍
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛延3年1月6日(1750年2月12日) |
死没 | 寛政元年8月24日(1789年10月12日) |
改名 | 松之丞(幼名)→国松→峯善→恭豊→豊雍 |
諡号 | 君粛、蘭稀、南邦 |
戒名 | 靖徳院融昭免寛 |
墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 |
官位 | 従四位下筑後守、侍従、土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 土佐藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 | 山内豊敷、加恵 |
兄弟 | 豊治、豊儀、豊根、豊雍、豊泰、峰、賀、正 |
妻 | 毛利重就三女友子 |
子 | 豊策、景之助、豊敬、采子、女子 |
山内 豊雍(やまうち とよちか)は、土佐藩9代藩主。
生涯
[編集]寛延3年(1750年)1月6日、第8代藩主・山内豊敷の四男として生まれる。宝暦6年(1756年)11月11日、豊敷の嫡子となる。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治に御目見する。明和元年(1764年)11月13日、従四位下筑後守に叙任する。明和5年(1768年)1月2日、父豊敷の死去により、家督を継いで藩主となる。同年12月28日、侍従に任官した。
藩政においては文武を奨励するなどした。また、天明の大飢饉による被害で藩財政が困窮したため、藩士の知行借上などを行なっているが、効果はなかった。このため、天明7年(1787年)に吾川郡池川・名野川の百姓が伊予に逃散する。豊雍は谷真潮、尾池春水、久徳直利などの人材を用いて藩政改革に乗り出す。まず、土佐藩20万石の格式を10万石に切り下げて節約を行ない、問屋制を廃止して五人組の強化などを行なった。これら一連の改革を天明の改革といい、藩財政はいくらか再建されたという。
安永9年12月21日(西暦では1781年1月)、一族の旗本・山内豊産に蔵米1万俵に支給し、大名(土佐新田藩主)にする。なお、豊産への蔵米支給は、弟豊泰を養子に入れる約束で行われた。寛政元年(1789年)8月24日に死去した。享年40。跡を長男の豊策が継いだ。
藩政改革を成功させたことから名君と呼ばれている。また、温厚賢明な性格だったといわれている。
系譜
[編集]- 父:山内豊敷(1712-1768)
- 母:加恵 - 貞光院、伊笹氏
参考文献
[編集]- 『寛政武鑑』(国文学研究資料館蔵)