コンテンツにスキップ

佐竹祐義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山入祐義から転送)
 
佐竹祐義
時代 室町時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 刑部大輔(受領名
幕府 室町幕府常陸守護
氏族 山入佐竹氏
父母 父:佐竹与義
兄弟 義郷祐義
小場惟義の娘
義知義真
テンプレートを表示

佐竹 祐義(さたけ すけよし)は、室町時代の武将。常陸国に勢力を持つ佐竹氏の一門。

生涯

[編集]

応永29年(1422年)に父の与義が戦死し、兄の義郷もまた短期間で隠居もしくは死去したことから、甥の義信に代わって祐義が山入氏の家督を継いだ。応永30年(1423年)6月、将軍足利義持は、常陸守護である惣領の佐竹義憲(後の義人)を解任して祐義を任命しようとし、鎌倉公方足利持氏の反発を買った[1]。この後、幕府は義憲と祐義の両者を一方的に半国守護に任じ[2][3]、守護が事実上分立する状態になった[4]

永享の乱結城合戦では祐義はいずれも幕府方に属しており[5]鎌倉府方に属した惣領の義人と敵対している。結局鎌倉府方は2度にわたる大敗北を喫したため、義人は隠居して長男の義従(後の義俊)に家督を譲った。

しかし、義人は次第に義俊を疎んじて次男の実定を偏愛するようになり、そのため義俊と実定の間で家督をめぐる抗争が巻き起こった。祐義はこの乱に際して実定を支持して介入し、享徳元年(1452年)には江戸通房らと結託して義俊・義治父子を本拠地太田城から追放した。この抗争は義人・実定の相次ぐ死によって義俊方が勝利し、応仁元年(1467年)に義俊は太田城に復帰している。

祐義の後は長男の義知が継ぎ、宗家との争いを続けた。

出典

[編集]
  1. ^ 満済准后日記』応永30年6月5日・同32年閏6月11日条
  2. ^ 冨山 2017, p. 1490
  3. ^ 山入の乱”. 茨城県立歴史館. 2019年9月22日閲覧。
  4. ^ 杉山一弥「室町幕府と常陸〈京都扶持衆〉」『室町幕府の東国政策』思文閣出版、2014年。ISBN 978-4-7842-1739-7 
  5. ^ 佐竹義人」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E4%BA%BAコトバンクより2020年7月10日閲覧 

参考資料

[編集]