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クチュルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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クチュルク
屈出律
西遼(カラ・キタイ)第4代皇帝
在位 1211年 - 1218年

出生 不詳
死去 1218年
バダフシャーン
家名 ナイマン
父親 タヤン・カン
宗教 ネストリウス派キリスト教仏教
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屈出律
西遼
王朝 西遼
在位期間 1211年 - 1218年
都城 虎思斡魯朶
廟号 なし
生年 不詳
没年 1218年
塔陽罕
古児別速
后妃 渾忽公主
陵墓 なし
年号 天禧
敞温

クチュルク(Küčülüg)は、モンゴル高原西部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝。

遼史』では屈出律、『元史』では曲出律、『元朝秘史』では古出魯克の名で表記されている。ペルシア語表記では『世界征服者の歴史』および『集史』がともに كوچلك خان Kūchuluk Khān ないし كوشلوك Kūchulūkと綴る。クチュルクとはテュルク語で küč+lüg 「力ある者」の意味である。日本語では「グチュルク」[1]、「グチルク」[2]とも表記される。

生涯[編集]

ナイマン部族の首長・タヤン・カンの子[3]

1204年、父がチンギス・カンに敗れると、イルティシュ川方面に逃れた[4]1205年春、クチュルクはメルキトトクトア・ベキと合流し、イルティシュ川の支流・ブグドルマ川付近でチンギスを迎え撃った[5]。トクトアは流れ矢に当たって死に、クチュルクは西遼のグル・カンチルグ)のもとに身を寄せた[6]

クチュルクはチルグに厚遇され、その娘婿になる[6]。やがてクチュルクはナイマンの残党を集めて西遼を簒奪した[6]

即位後、西遼以前に中央アジアを支配していたカラハン朝の残部が西遼の宗主権下で存続していたタリム盆地南部のホータンカシュガルを次々に征服し、中央アジアに勢力を広げた。また、契丹人貴族の支持を得るために、妻の影響も受けてナイマンの旧来の信仰であるネストリウス派キリスト教から仏教に改宗した。しかし熱心な仏教徒となってイスラム教を弾圧したため、領内の住民の大多数を占めるムスリムのクチュルクに対する反感が強まった。

1218年、大モンゴル国の将軍・ジェベによりサリク崖(『集史』ではサリ湖)で滅ぼされた[7]

子孫[編集]

クチュルクにはチャウン(敞温)という子がいたが、西遼の陥落時に父とともに殺害された。チャウンの子のチャウス(抄思)は、当時12歳で生母が西遼の王族であったが、母とともにチンギス・カンに降伏し、以後チャウスの一族はモンゴル帝国に仕えるようになった[8]

ナイマン王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 佐口透『モンゴル帝国史』、村上正二『モンゴル秘史』
  2. ^ 井上靖の『蒼き狼』など。
  3. ^ 白石 2024, pp. 124, 132.
  4. ^ 白石 2024, pp. 134–138.
  5. ^ 白石 2024, p. 143.
  6. ^ a b c 白石 2024, p. 144.
  7. ^ 白石 2024, p. 182.
  8. ^ 元史』巻121列伝8抄思伝,「抄思、乃蛮部人。又号曰答禄。其先泰陽、為乃蛮部主。祖曲書律父敞温。太祖挙兵討不庭、曲書律失其部落、敞温奔契丹卒。抄思尚幼、与其母跋渉間行、帰太祖、奉中宮旨侍宮掖」

参考資料[編集]

  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注、東洋文庫平凡社、1968年3月、ISBN 4582801102
  • 訳注:村上正二『モンゴル秘史1 チンギス・カン物語』(平凡社、1970年、ISBN 4582801633
  • 訳注:村上正二『モンゴル秘史2 チンギス・カン物語』(平凡社1972年ISBN 4582802095
  • 白石典之『元朝秘史―チンギス・カンの一級史料』中央公論新社中公新書2804〉、2024年5月25日。ISBN 978-4-12-102804-4 (電子版あり)