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尹祚乾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尹祚乾
『大満洲国要人画報』(1934年)
プロフィール
出生: 1887年光緒13年)12月[1][2][3][4]
死去: 1965年民国54年)
出身地: 清の旗 湖南省懐化県[1][2][3][5]
職業: 海軍軍人・実業家
各種表記
繁体字 尹祚乾
簡体字 尹祚乾
拼音 Yǐn Zuòqián
ラテン字 Yin Tso-ch’ien
和名表記: いん そけん
発音転記: イン・ツォーチエン
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尹 祚乾(いん そけん、1887年12月 – 1965年)は、中華民国満洲国の海軍軍人・実業家。満洲国江防艦隊司令官・江上軍司令官であるが、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に転じた。

事績

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幼い頃から学を好み、1903年(光緒29年)に日本へ留学する[5]。東京高等商船学校を経て、海軍砲術学校海軍水雷学校を卒業した[1][2]

帰国後の1913年(民国2年)1月31日に海軍少校となる[6]1922年(民国11年)7月、「利済」艦長となり、以後、「利捷」艦長、「江亭」艦長を歴任している[2]。なお、1927年(民国16年)7月23日に海軍中校の位を授与された[6]国民政府では張学良率いる東北軍で「江興」艦長となり、ソ連海軍とも交戦したことがある[5]

満洲国建国後の1932年大同元年)8月、海軍少将江防艦隊司令官に就任し、1935年康徳2年)8月、海軍中将に昇進した[1][2]1939年(康徳6年)2月、陸軍中将江上軍司令官となった[7]

1941年(民国30年)、南京国民政府(汪兆銘政権)軍事委員会委員[8]凌霄の推薦で、南京要港海軍司令部司令に任命された。翌1942年(民国31年)、海軍上将に昇進し[5]1943年(民国32年)10月10日には凌霄と共に陸軍少将も兼ねた[9]。しかし、この頃から軍人間での内部対立が激化したため、1944年(民国33年)3月、尹は軍人を引退し、南京市で内河輪船公司経理となっている[5]

日本敗北後、尹祚乾は漢奸の名簿にいったんは入れられたが、後になって蔣介石の手配により実際の訴追を免れた模様である[10]1949年(民国38年)、台湾に逃れ、海軍司令の1人として再起用された。晩年は軍人を引退して実業界に入った[5]

1965年(民国54年)、死去[5]。享年79。

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  1. ^ a b c d 尾崎監修(1940)、4頁。
  2. ^ a b c d e 外務省情報部編(1937)。
  3. ^ a b 満蒙資料協会編(1940)、1453頁。
  4. ^ 夏(1997)は「1886年」としているが、尾崎監修(1940)、外務省情報部編(1937)、満蒙資料協会編(1940)に従う。
  5. ^ a b c d e f g 夏(1997)、87頁。
  6. ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:尹祚乾」
  7. ^ 満蒙資料協会編(1940)、1453頁。
  8. ^ 夏(1997)は「海軍部長」としているが、当時の凌霄は軍事委員会委員専任のため、誤りである。
  9. ^ 『日文国民政府彙報』第202号、民国32年11月6日、2頁。
  10. ^ その一方で凌霄は漢奸の罪に問われ、1946年6月24日、汪兆銘政権の軍人としては、真っ先に銃殺刑に処された3人の内の1人となった。

参考文献

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  • 夏昌斌「尹祚乾将軍簡介」『懐化人物伝』中国人民政治協商会議懐化市委員会文史資料研究委員会、1997年。 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。 
  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲帝国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。