小笠原長逵
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳3年2月15日(1713年3月11日) |
死没 | 明和7年8月18日(1770年10月6日) |
別名 | 総次郎 |
戒名 | 天寧宗祐景雲院 |
墓所 | 兵庫県姫路市安富町安志の大雄山法性寺 |
官位 | 従五位下・信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 播磨安志藩主 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 |
父:小笠原忠基、母:松室氏 養父:小笠原長興 |
兄弟 | 忠貞、長吉、長逵、久吉、長良、忠総、長周、利代姫、幾姫、幸姫、多賀姫 |
妻 |
正室:小笠原長興の養女 側室:小林氏、法寿院 |
子 | 男子、長為、忠苗、大岡忠與、政宣、水野勝起継室、女子 |
小笠原 長逵(おがさわら ながみち)は、播磨国安志藩2代藩主。忠脩系小笠原家7代。
生涯
[編集]正徳3年(1713年)2月15日、小笠原本家の豊前小倉藩第3代藩主・小笠原忠基の次男として小倉で生まれる。
享保15年(1730年)6月、子の無い初代安志藩主・小笠原長興の養子となり、12月11日に長興が隠居したためその跡を継いだ。12月18日には叙任する。長興は妹を養女とし、長逵に正室として娶らせている。
藩政においては、宝暦5年(1755年)に無償もしくは有償で生活に困窮する百姓を助ける「夫食付方仕法」という共済制度を定めている。これは幕府が天明5年(1785年)に定めたものと同様の法律で、長逵は30年前から実施したのである。
明和7年(1770年)8月18日に死去した。享年58。跡を次男の長為が継いだ。
系譜
[編集]- 父:小笠原忠基(1682年 - 1752年)
- 母:松室氏
- 養父:小笠原長興(1712年 - 1786年)
- 正室:小笠原長興の養女、小笠原長円の娘
- 次男:小笠原長為(1745年 - 1782年)
- 側室:小林氏
- 室:法寿院 - 粟津弥次右衛門娘
- 生母不明の子女