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小笠原長義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原長義
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 不詳
死没 応永10年10月25日1403年11月9日[1]
別名 彦太郎(通称
戒名 道本院殿
官位 左近将監尾張守
幕府 室町幕府
主君 足利義満義持
氏族 清和源氏義光流石見小笠原氏
父母 父:小笠原長氏[2]
兄弟 長義氏義[2]、娘(出羽氏の室)[2]
長教[2]西長助[2]長谷長吉[2]上村長辰[2]
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小笠原 長義(おがさわら ながよし)は、南北朝時代から室町時代にかけての武士石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)の温湯城を本拠とする国人石見小笠原氏の第5代当主。

生涯

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石見小笠原氏第4代当主の小笠原長氏の子として生まれる。弘和3年/永徳3年(1383年8月1日に父・長氏が死去し[1]、その後を継いだ。

元中7年/明徳3年(1390年4月10日石見国守護大内義弘より石見国邇摩郡河合郷吉永郷地頭職を安堵される[3]

応永元年(1394年)、石見国邑智郡の谷市郷と弓市郷を領有する[3]。同年に弓ヶ峯八幡宮の社殿を造営し、伊予の三島大明神川下村に勧請した(現在の川本町三嶋神社[3]。応永3年(1396年5月3日三原郷八幡宮(後の武明八幡宮)に寄進する。

この頃、次男・長助に邑智郡都賀西を、三男・長吉に邑智郡長谷を、四男・長辰邇摩郡上村をそれぞれ分封し[3]、近隣の中小領主を家臣団に組み込んでいきながら、石見小笠原氏の地位を確立していった[4]

応永10年(1403年10月25日に死去[1]。嫡男の長教が後を継いだ。

脚注

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  1. ^ a b c 長江寺過去帳』
  2. ^ a b c d e f g 『萩藩諸家系譜』114頁。
  3. ^ a b c d 『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』38頁。
  4. ^ 『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』3頁。

参考文献

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先代
小笠原長氏
石見小笠原氏当主
1383年 - 1403年
次代
小笠原長教