コンテンツにスキップ

小町紅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「小町紅」とは、江戸時代後期に始まる口紅(笹紅)艶紅の商標で、当時の高級ブランド口紅であった。

そもそも「小町紅」の商標は、京都四条通麩屋町東にあった紅屋「紅屋平兵衛」(屋号を紅平)の木村平兵衛が命名し使用し始めたものである。「小町」とは平安時代前期の歌人、小野小町の名にあやかって付けられた冠。絶世の美女だったとの伝説が残る小野小町は、女性化粧料の商標に相応しく、紅屋にとって「美人=紅」を連想させるものだったのだろう。

しかし、江戸時代の日本社会には商標制度がまだなく日本で商標制度が始まるのは明治17年公布の「商標条例」から、「小町紅」の名は紅平以外の紅屋でも広く使われた。紅屋平兵衛(紅平 )の木村平兵衛が商標争いをするが、時すでに世に広く紅屋で使われていた理由で争いに負けてしまう。京紅、小町紅と言えば紅平(べにへい)と世間ではなっていたが他の紅屋の訴えもあって、小町紅は商品名では無いという結論に至ってしまう 。木村平兵衛は落胆したそうです。そのためか紅平の引札には「元祖」と謳ったものが多い。江戸時代後期以来今日まで、玉虫色の高級口紅の名として定着した商標である。

ですが現在では伊勢半本店が小町紅の商標を取り「小町紅」という名前を独占してるという矛盾が生じている。

現在は伊勢半本店と少数の職人と一部の方が江戸時代から続く伝統製法で製造販売している。

現代の小町紅

概要

[編集]

江戸時代口紅は、紅花の花弁に含まれるわずかな赤色色素を抽出し精製したもので、現在の油性基材の口紅とは異なる。口紅の製造は、紅屋または紅染屋が紅染めの兼業として行う形態が主であり、小間物屋や薬種問屋といった化粧品を扱う店では、紅屋から仕入れた口紅の卸売りを行うことが多かった。抽出・精製した口紅は、陶磁製の猪口や皿、あるいは貝殻などの内側に塗った状態で販売された。先般、新宿区の内藤町遺跡から「小町紅」と書かれた肥前系磁器の紅猪口(推定年代1780~江戸時代)が発掘されている[1]。なお、紅の容器と思しきものが文献上に確認できるのは平安時代からで、『江家次第』に「口脂筥」、『香取宮遷宮用途記』には「紅粉佐良」、『類聚雑要抄』には「紅粉盤」とある。

天保2年(1832年)に出版された、当時のショッピングガイド誌『商人買物独案内』(京都編)には、「御用小町紅」として京都四条通麩屋町東の「紅平」(紅屋平兵衛)の名が収載されている。同書には、紅平以外にも「小町紅」を取り扱う店として、祇園町の高島屋喜兵衛、伊勢屋五三郎、美濃屋吉郎兵衛の店などを載せている。

前掲書に先立ち、江戸で出版された『江戸買物独案内』(文政7年・1824年刊行)によれば、江戸でも近江・伊勢系商人の店で「小町紅粉」を扱っていたことが確認できる。口紅の製造の主体は長く京都にあり、江戸ではもっぱら下り物を扱っていた。江戸で口紅の製造・販売が行われるようになるのは、江戸時代後期以降と考えられている。

小町紅は、当時の口紅のいわばトップブランドで、良質ゆえに非常に高価であった。一般庶民が容易く購入できる口紅ではなく、主な購入者は御殿女中や豪商の婦女子、花柳界の遊女といった粋筋の人々だった。良質な紅は、容器の内側に塗り自然乾燥させると、赤色ではなく笹色(玉虫色)の輝きを放った。『江戸買物独案内』の中に「笹色飛光紅」を扱う「玉屋」(玉屋善太郎の店)という紅問屋の広告が収められている。玉屋はもともと京都の紅問屋で、小町紅の販売を行っており、江戸の日本橋本町二丁目に出店していた。『熈代勝覧』本町二丁目の風景の中に玉屋が描かれており、同資料には当時の紅屋の看板であった赤い幟が、玉屋の脇に確認できる。

脚注

[編集]
  1. ^ 新宿区立 新宿歴史博物館 赤絵紅猪口「小町紅」

参考

[編集]
  • 名所江戸百景:56. 駒形堂吾嬬橋には、紅屋の看板であった赤い幟が描かれている。

外部リンク

[編集]