小泉恭次
小泉 恭次 | |
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生誕 |
1886年2月2日 日本 山形県米沢市 |
死没 |
1946年12月10日(60歳没) 日本 東京都三鷹市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1905年 - 1939年 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月2日[1] - 1946年(昭和21年)12月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]1886年(明治19年)に山形県米沢市で生まれた[2]。興譲館中学校二年を経て、仙台陸軍幼年学校卒業[2]。1905年(明治38年)に陸軍士官学校第18期を卒業し[1][2]、1906年(明治39年)に歩兵少尉任官[2]。1915年(大正5年)に陸軍大学校第27期卒業[1][2]。1927年(昭和2年)に天津駐屯歩兵隊長に就任し[2]、済南事件が発生した際には日本人居留民の保護に当たった[3]。1928年(昭和3年)に東京警備司令部参謀を経て[2]、1930年(昭和5年)に陸軍歩兵大佐に進級し[4]、名古屋連隊区司令官に就任[4]。1932年(昭和7年)に歩兵第16連隊長に転じ[4]、満州事変に出動、馬占山軍と交戦した[3]。
1933年(昭和8年)に近衛歩兵第1連隊長[4]、1935年(昭和10年)3月に仙台陸軍教導学校長と歴任し[4]、8月に陸軍少将に進級[4]。1936年(昭和11年)には二・二六事件の責任を問われ更迭された、佐藤正三郎の後任として歩兵第1旅団長に就任[5]。第1師団隷下部隊として満州に駐屯する[5]。1937年(昭和12年)に第14師団司令部附となり[1]、内地に帰還。1938年(昭和13年)に陸軍中将に進級し[4]、鎮海湾要塞司令官に就任[1]。1939年(昭和14年)3月9日に待命[6]、3月20日に予備役に編入された[1]。
予備役編入後は中華民国新民会中央訓練所長として北京に赴任[7]。1945年(昭和20年)5月5日に召集され、東部軍管区兵務部長に就任[1]。敗戦後の小泉は、阿南惟幾や田中静壱の自決に感銘を受け、自決を考えたが[8]、8月25日に第142師団長に親補され、復員業務に当たる[7]。12月に復員業務は完了し[8]、召集解除となる[8]。外地に出征していた長男の帰りを待ち、復員後の1946年(昭和21年)12月10日に割腹自決した[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 伊藤禎 著『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513。