小島憲之 (建築家)
小島 憲之(こじま のりゆき、1857年(安政4年) - 1918年8月15日)は、日本の建築家、教育者。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学、英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。
経歴
[編集]下野国河内郡雀宮(栃木県宇都宮市)生れ、旧名・作次郎。父・小島信民は幕臣であった。
明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、1870年(明治3年)、大学南校に入学、アメリカ人教師ハリスに認められる。1873年(明治6年)学校を中退、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡り、ハートフォード中学に入学。1875年、コーネル大学建築学部に入学。1879年に卒業し、学士号(Bachelor of Architecture)を取得した。ハートフォードの建築事務所で働いた後、ヨーロッパ、インド、中国を経て、1881年(明治14年)に帰国した[1]。ロンドン滞在時に留学中の辰野金吾(1879年工部大学校卒業)と会ったという[2]。
帰国後は東京大学理学部、工部大学校、大学予備門・第一高等学校、東京美術学校(現・東京芸術大学)で用器画、英語を教えた。英語に堪能で、神田乃武、浅田栄次とともに英語教育界の三羽烏と呼ばれた[3]。夏目漱石も小島の教え子の一人である。また、第一高等学校で長年用器画を担当していたため、伊東忠太、長野宇平治、塚本靖、岡田信一郎など、小島に学んだ建築家は数多い。
1885年、湯島聖堂にあった東京図書館を上野に移すことになり、移転計画に関わった(帝国図書館の項を参照)。書籍庫(1886年竣工)はこの時に建てられ、小島の作品として唯一現存する[4]。実作の機会に恵まれる機会は少なく、建築家としては不遇であった[5]。
一高教授在任中の1918年8月、日本アルプス登山の途中で急逝、享年62。
子息の小島新吾は建設省営繕局長を務めた。また、建築家西村好時の義父にあたる。
栄典
[編集]- 位階
- 1897年(明治30年)7月10日 - 正六位[6]
- 1900年(明治33年)9月21日 - 従五位[7]
- 1906年(明治39年)12月27日 - 正五位[8]
- 1918年(大正7年)8月19日 - 従三位[9]
- 勲章等
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[10]
- 1906年(明治39年)6月30日 - 勲四等瑞宝章[11]
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[12]
- 1918年(大正7年)8月19日 - 勲二等瑞宝章[9]
参考文献
[編集]- 杉山英男『近代建築史の陰に』(上)(2019年、海青社) - 「小島憲之と一高」「若き日の小島憲之」の章がある。
- 新建築臨時増刊「日本近代建築史再考」(1974.10)
- 「第一高等学校教授小島憲之叙勲ノ件」[1](叙勲裁可書・大正七年・叙勲巻三・内国人三) - 勲二等瑞宝章に叙する際の公文書。履歴書が添付されている。
- 『人事興信録』2版(1908年)[2]
注釈
[編集]- ^ 高杉造酒太郎『建築人国雑記』P62(1973年)。履歴書により補足。
- ^ 森井健介『師と友』P68(1967年)。
- ^ 森井前掲書P26。
- ^ 関東大震災で被害を受け、岡田信一郎の設計により修復された。現在は東京芸大音楽学部の構内にある「赤レンガ2号館」。ちなみに守衛所寄りにある赤レンガ1号館は旧教育博物館書庫で、林忠恕設計、1880年竣工。
- ^ 村松貞次郎「不遇の建築家 小島憲之」『日本近代建築史ノート』(世界書院、1965年)所収。
- ^ 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
- ^ 『官報』第5169号「叙任及辞令」1900年9月22日。
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
- ^ a b 『官報』第1816号「叙任及辞令」1918年8月21日。
- ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
- ^ 『官報』第6902号「叙任及辞令」1906年7月3日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。