小倉鋲一郎
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生誕 | 1853年8月25日 |
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死没 | 1928年12月23日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1881年 - 1909年 |
最終階級 | 海軍中将 |
小倉 鋲一郎(おぐら びょういちろう、1853年8月25日(嘉永6年7月21日) - 1928年(昭和3年)12月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]幕臣出身[1]。江戸で生まれる。明治5年(1872年)9月、海軍兵学寮に入学。1878年(明治11年)7月、海軍兵学校(5期)を卒業。1881年(明治14年)1月、海軍少尉任官。
1886年(明治19年)12月、「龍驤」分隊長となり、以後、軍事部出勤、「高千穂」分隊長、「武蔵」「大和」「海門」の副長、海軍省第1局第1課次長などを歴任。1891年(明治24年)12月、海軍少佐に昇進。
1893年(明治26年)5月、大臣官房人事課課僚兼軍務局第1課課僚となる。その後、「高雄」副長を経て、1894年(明治27年)11月、「松島」副長となり日清戦争に出征。さらに「鳥海」「龍田」の各艦長を歴任。1897年(明治30年)6月、海軍大佐に進級し「高雄」艦長となった。1898年(明治31年)9月、「橋立」艦長に就任し、以後、「吾妻」回航委員長(フランス出張)、同艦長、「朝日」艦長、横須賀鎮守府参謀長を務めた。
1904年(明治37年)6月、海軍少将に進んだ。日露戦争では1905年(明治38年)1月に特務隊(後に特務艦隊と改称)司令官に発令され、日本海海戦などに従軍。日本海海戦後の同年6月、第1艦隊司令官に転じた。
1905年12月、海軍省人事局長兼海軍将官会議議員に就任。1908年(明治41年)8月、海軍中将に進み海軍将官会議議員となる。同年12月、待命となり、1909年(明治42年)12月、予備役に編入。1914年(大正3年)3月1日に後備役となり[2]、1918年(大正7年)7月21日に退役した[3]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 従七位[4]
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正七位[5]
- 1892年(明治25年)3月23日 - 従六位[6]
- 1897年(明治30年)5月31日 - 正六位[7]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[8]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[9]
- 1908年(明治41年)5月11日 - 従四位[10]
- 1910年(明治43年)1月31日 - 正四位[11]
- 勲章等
- 1890年(明治23年)5月30日 - 勲六等瑞宝章[12]
- 1894年(明治27年)11月24日 - 勲五等瑞宝章[13]
- 1895年(明治28年)
- 1904年(明治37年)5月27日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[17]
親族
[編集]- 義弟 澤鑑之丞(海軍造兵総監)
出典
[編集]- ^ 『勝海舟(下)』324頁
- ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
- ^ 『官報』第1794号、大正7年7月25日。
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
- ^ 『官報』第2617号「叙任及辞令」1892年3月24日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7460号「叙任及辞令」1908年5月12日。
- ^ 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。
- ^ 『官報』第2076号「叙任及辞令」1890年6月3日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
- ^ 『官報』号外、「叙任及辞令」1906年12月30日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 勝部真長『勝海舟(下)』PHP研究所、1993年。ISBN 4-569-53618-2。