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小佐野景浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小佐野 景浩(おさの かげひろ 1961年9月5日 - )は、プロレスライター・評論家

かつて存在したプロレス雑誌・週刊ゴングの元編集長で、日本スポーツ出版社編集企画室長、執行役員を歴任した。

実弟は鉄道ライター・東洋経済新報社記者の小佐野景寿(ペンネーム:小佐野カゲトシ)[1][2]

来歴

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小学生の頃からプロレスに造詣を持ち、高校生の時に新日本プロレスの私設ファンクラブ「炎のファイター」を設立し、中央大学入学と共に、日本スポーツ出版社の月刊ゴング編集アルバイトスタッフ[3]として入社。1983年に大学を中退し正社員となり、1984年4月に全日本プロレス担当記者となる[4]

週刊ゴングの創刊後は、全日本プロレスを始めとした数多くのプロレス団体の取材を担当し、天龍源一郎の番記者として知られた。

1994年から編集長を務め、1999年に編集企画室長就任。2002年11月から執行役員に昇進し、2004年9月に退社。

退社後はフリーのプロレスライターとして現在に至る。

ゴング時代

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ゴング時代は、ゴングが全日本がスタン・ハンセン引き抜きをスクープし、ハンセンとブルーザー・ブロディの2ショット写真を別冊ゴング1982年1月号に掲載したところ「外人レスラー引き抜きに暗躍する一部マスコミ」という記事を掲載した『月刊プロレス』1982年2月号を見た坂口征二がゴングがハンセンの引き抜きに関与しているとして小佐野を呼び出し、小佐野に対して怒鳴りつけたことがある[5][6]。その後小佐野が証拠となるポジフィルムを見せると約束し、竹内宏介が坂口にポジフィルムを見せている。[7][8]。後に小佐野は、別冊ゴング1982年1月号の表紙に関して「アメリカで撮影された写真を温存し、出すタイミングを計っていただけ」[9]と語っている[8]

その後は天龍源一郎の番記者として、天龍に関する数々の記事を手がけた。1985年に発生した阿修羅・原による一連の長州力襲撃や天龍に対する挑発では、小佐野は原から連絡先をもらった上で、原が都内で行っていた秘密特訓をスクープした[10]。1990年4月、天龍が全日本プロレスを退団するという話を誰よりも早く知ったプロレス記者は小佐野である[11]。小佐野はその後のSWSなどの動きを把握しないまま記事を書き、4月25日発行のゴングの表紙に小佐野が伝え聞いた「ジャンボに負けたら辞めるよ」の文字が掲載された。

『週刊プロレス』編集長ターザン山本は、天龍が小佐野を使ってゴングに情報をリークした物だと決め付け、ゴングやSWSへのバッシングを開始した[11][12]。小佐野は2008年週プロのインタビューで、天龍の退団のことは結果的にジャイアント馬場と天龍が話し合いをする前日に本が発行されることになり双方に迷惑をかけてしまったと振り返った[12][13]

1995年、週刊プロレスが東京ドームにて「夢の架け橋」を主催者として開催。ゴングは「夢の架け橋」に賛同しなかったWARが同日に開催した、目と鼻の先の後楽園ホールでの大会を小佐野と天龍との関係から後援するような状態になり、これを機に小佐野率いるゴングは、対週プロ(対ターザン山本編集長)の姿勢を強めた[13]。しかし翌1996年、山本が新日本プロレスなどから取材拒否を受けて週プロを引責辞任したことで、部数を落とした週プロを追い抜きところてん式にプロレス雑誌売り上げトップになったことについては「同じ土俵で勝負したかった」と語り、不本意な出来事だったとしている[13]

執筆

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連載

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  • サンデー小佐ポン(2009年9月6日‐2017年9月3日、週プロモバイル)
  • 平成プロレス名勝負裏リングサイド(「アサヒ芸能」2013年-2014年、徳間書店
  • プロレス黄金時代 昭和の名勝負裏実況(「アサヒ芸能」2014年‐2017年12月29日特大号、徳間書店)
  • 90年代プロレス戦国時代 ウラ実況!(「アサヒ芸能」2017年1月5・12日年末年始合併特大号‐、徳間書店)
  • 小佐野景浩のプロレス歴史発見(2014年12月7日-、Dropkickチャンネル)

書籍

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単著

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  • 『SWSの幻想と実像―日本マット界を震撼させた企業プロレスとは何だったのか!?』(1999年10月1日、日本スポーツ出版社ISBN 978-4930943248
  • 『昭和プロレス維新―BIという強大な時代の壁に挑んだ長州ジャパン・プロ』(2000年10月1日、日本スポーツ出版社)ISBN 978-4930943415
  • 『天竜同盟十五年闘争―歩む道は違っても心に宿るレボリューション魂天竜、原、川田、冬木、小川…5人の生きざまとは』(2002年9月1日、日本スポーツ出版社)ISBN 978-4930943651
  • 『プロレス秘史1972-1999』(2017年12月19日、徳間書店)ISBN 978-4198645281…アサヒ芸能連載の一部を再構成したもの
  • 『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(2020年5月13日、ワニブックスISBN 978-4847099199
  • 『至高の三冠王者 三沢光晴』 (2021年12月18日 、ワニブックス)

共著

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脚注

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  1. ^ 小佐野景浩 on Twitter」『Twitter』。2018年5月11日閲覧。
  2. ^ 小佐野 景寿 | 著者ページ”. 東洋経済オンライン. 2021年10月6日閲覧。
  3. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol.8』P13(2015年、ベースボール・マガジン社ISBN 978-4-583-62269-9
  4. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.29』P17(2016年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4-583-62497-6
  5. ^ 実際の2ショット写真はニューオーリンズで撮影しており、坂口は名古屋で撮影していたものと勘違いしていた。
  6. ^ 実際、全日本と新日本は1981年11月30日に愛知県内で興行を行っており、坂口はハンセンとブロディの2ショット写真を両団体の外国人選手の宿泊地である名古屋で撮影したものと勘違いしたとされる。
  7. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史vol.8』P15(2015年、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4-583-62269-9
  8. ^ a b プロレス蔵出し写真館 ハンセンど迫力の会場入り!全日引き抜きで犯人捜し、坂口征二がゴング誌を事情聴取東京スポーツ 2023年1月15日
  9. ^ 当時の別冊ゴングは毎月15日頃発売であり、別冊ゴング1982年1月号は「'81世界最強タッグ決定リーグ戦」の直後に発売している。
  10. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.29』P21(2016年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4-583-62497-6
  11. ^ a b 『スポーツアルバム No52. 天龍源一郎 引退特別号 上巻』pp68 - 70 「Sと週プロ。 一体なにがあったのか」(2015年、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4-583-62282-8
  12. ^ a b 『週刊プロレス別冊初夏号 プロレス平成20年史』pp24「時代を読む!2 平成2年コラム」(2009年、ベースボール・マガジン社)雑誌 29689-6/1 L-6/11
  13. ^ a b c 『週刊プロレス別冊青葉号 創刊25周年シリーズ1 週プロ回顧録 四半世紀の真実』pp81 - 83 「元・週刊ゴング編集長から見た週プロ」(2008年、ベースボール・マガジン社) 雑誌 29689-6/1 L-6/22

関連項目

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外部リンク

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