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尊盧氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

尊盧氏(そんろし、ピンイン:zūn lú shì)は、古国時代の氏族である。昔は容成氏であったとされる[1][2]。また、この氏族出身の帝王が1人しかいないため、そのことを指す場合もある。『荘子・外篇・胠箧』によれば、性別は男であったとされる[3][4]

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姓は不明だが、他の氏の記述から同様に風姓であると考えられる[2]

統治

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尊盧氏から執政になった秦槍は、紀元前6358年に尊盧氏の政治活動の中心であった盧氏城(現在の河南省三門峡市盧氏県沙河郷三角村)で生まれたとされる。盧氏研究会副会長兼事務総長の武金鐘は10年にわたる研究の結果、当時の尊盧氏の長の尊称が盧氏であったとした[注釈 1]。また、戦国時代に書かれた『尚書』『禹貢』の記述によると[注釈 2]、とあり、豫州の四本の河川は禹が伊河・洛河に疏を実施した所である。この2本は盧氏の領域内にある。また『尚書』『禹貢』には、(導)熊耳、外方、桐柏至陪尾。という記述もある。外方は嵩山のことで、陪尾山は安陸北にあった。その中に熊耳の盧氏の領域があったという。

後世

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戦国時代の五帝に関する書物では、盧氏の地をが何度も訪れ、尊盧氏の民を率いて疏という方法の治水に取り組み、山を切り拓いたりしたという記述があるが、これは比較的正しいとされる。この計画は大きく、所要期間や範囲はかなり大きかったものとみられる。地質情報からも、盧氏の地は海面下にあったが、陸地となり、大小の湖が点在するようになった事が分かっている。盧氏盆地は大きな湖、沙河・両岔河は川、三門・水峪河・船子峪はいずれも小さな湖となり、水を岔河に流すために作ったものであるとされ、現地調査から、山河口・窄底河・青石関などでは掘削跡が発見されている[5][6][注釈 3][注釈 4]

関連項目

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出典・注釈

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  • 出典
  1. ^ 『荘子・外篇・胠箧』:昔者容成氏大庭氏柏皇氏中央氏栗陸氏驪連氏軒轅氏赫胥氏、尊盧氏、祝融氏伏羲氏神農氏,当是時也,民結縄而用之,此十二氏皆古帝王。
  2. ^ a b 『荘子・外篇・胠箧』 - 古詩文网.2009年09月01日 (引用:2019年11月03日)
  3. ^ 唐楊炯『遂州長江県先聖孔子廟堂碑』序:洎乎尊盧、赫胥之代,驪連、栗陸之君。
  4. ^ 『雲笈七籤』巻二:人皇之後,而有尊盧。
  5. ^ 盧氏古国其早為尊盧氏部落(2020年04月23日)
  6. ^ 尊盧氏-Baidu
  • 注釈
  1. ^ 原文は“伏羲女媧氏政権属于母系氏族時代,所以尊盧氏部落的酋長被尊称為盧氏”。
  2. ^ 原文は「荊河惟豫州(豫州,西南至南条荊山,北距河),伊・洛・瀍・澗(伊水出盧氏熊耳山,洛水出冢嶺山,瀍水出替亭山,澗水出白石山)既入于河(以往横流,導後遵道匯于洛,合流後入于黄河)」
  3. ^ 武金鐘の参照した原文『禹貢』:「導洛自熊耳,東北匯于澗・瀍,又東会于伊,又東北入于河。」
  4. ^ 武金鐘の参照した原文『禹貢』注:「洛水出冢嶺山,其源尚微,至熊耳山始盛,禹故自此開導之。」